どうやらいつの間にか眠ってしまったようだった。この二日間緊張を強いられ、殆ど眠ることなく彼の様子を見ていたのだから意識が緩んだのも当然だろう。芭蕉を見ると、この二日間が嘘のように安らかな寝顔をしている。良かった。
 火鉢の中で温めていた火が消えていることから、どうやら長い時間が経ってしまったようだと知る。唯一の熱源である火が消えて、部屋の中は寒い。火鉢に火を入れ、彼の額の手拭を取り換える。そのまま額に掌をあてて熱を確かめると、いくらなんでもまだ完全に下がったわけではないのだろうが、殆ど平熱に近い。そのまま指を這わせ、頬骨、唇、と辿っていく。唇は水分を失ってひどく乾いている。曽良は水を少しだけ自分の口に含み、芭蕉の唇に重ねた。かさついた唇はいつもより薄く感じた。
 ごくん。
 芭蕉の喉が鳴る。
 曽良は唇を離した。彼の睫毛が細かく震え、起きるのだろうかともう一度くちづける。彼の下唇を舐め、甘噛みする。「……ぅん」芭蕉の口から小さく声が漏れた。
「芭蕉さん」
「……ぁ、……そらくん?」
「芭蕉さん、好きです」
 舌をさし入れて芭蕉のそれと絡め、芭蕉の嬌声を聞くために口の中を蹂躙する。糸を引くように顔を放し、そうした途端に一層深くくちづけて、余韻すら与えず唾液を舐めとるように裏側から歯列をなぞり、最後は彼の唇を喰らうように挟んで放した。彼の吐息が悩ましげに部屋を満たす。曽良は真っ直ぐに彼の目を見詰めて確かな口調で告げる。
「夢です」
「ゆめ?」
「だから、起きたら忘れるでしょう」
「そう……、そうなんだぁ。勿体ないね」
 彼は困ったように眉尻を下げて微笑む。宥めるのに曽良がその頬を撫ぜて微笑むと、彼は驚いて目を見張った。
「ほんとだ、君も笑うんだね」
「僕が嘘をついたことがありますか?」
「ないよ!」
 彼は朗らかに笑う。けれどすぐに咳き込んでしまい、曽良はその背中を撫でながら云い聞かせた。
「聞いていますか? 僕はあなたが好きです」
「私も好きだよ」
「起きてから云って下さい」
「もう起きて……あれっ?」
「だから、まだ夢ですよ」
「夢の中でも、曽良くんはいつも通りだね」
「夢の中では、僕は優しいんじゃないですか?」
「え? だって、いつも優しいじゃない」
と、芭蕉は軽々と云ってのけ、曽良は驚いて言葉が出なかった。芭蕉は照れたように笑んで続ける。
「私、君の優しいところが好きなんだ」
「……そうですか」
「曽良くんは?」
「泣き顔です」
「ひどっっ!」
 曽良は先の驚きの余り上の空で答えていたが、本当にそう思っていた。彼の泣くのはとても綺麗で、何が綺麗かと云うと涙が綺麗なのだった。彼の詠む句のように、透明で、清廉だった。その雫が彼の目から落ちずにそのまなじりに残るとき、少し明るい茶色の瞳がいつもより多めに光を反射して硝子玉のように光るのも美しかった。
「ねえ起きたら……」
 言いかけたところで眠気が襲ったのか、芭蕉の瞼がほとりと落ちる。彼が瞼を震わせて、それをこじ開けるように開くのを曽良はじっと見詰めていた。曽良を見て笑いかけながら、彼は言葉を続けた。
「起きたらまた、笑ってくれる?」
「嫌ですよ」
「ちくしょ……」
 ぱたん、と彼は眠りに落ちた。曽良はその布団を直し、そのまま隣に横になった。










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≪戻る。  ≫続く。


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