なんでこんなことに。
 目の前の光景が変わることを期待して、一度目を閉じる。開ける。変わらない。ポッキーの柄をくわえた猫丸先輩が、凶悪な目付きで僕を睨んでいた。
「あの……」
「なんだよ」
 常にはない険悪な低い声。僕を睨む目にさらに力がこもる。声をかけたことを後悔したが、ここでやめると余計に怒られることは目に見えている。
「本当にすみませんでした」
「何に対してだ? 僕の誘いを断ったことか? それとも合コンに行ったことか?」
「……両方です」
 一昨日、猫丸先輩からデートのお誘いを受けた。と言っても、彼のバイト先のファミレスに客として行き、バイトが終わった後に一緒に夕飯を食べる程度のものだけれど、デートはデートで、とても嬉しかった。のだけれど、その翌日締め切りのレポートがあって、平身低頭謝りに謝って、許してもらった。その夜、僕は必死になってレポートを書いた。書いてみると思ったよりも早く書きあがり、夜の11時には完成した。今から迎えに行こう、と思ったが、もう帰っているかもしれない。とりあえず連絡しようとケータイを手に取ったところで、そのケータイに同じサークルの友人から電話がかかってきた。合コンの誘いだった。
「行かないよ」
「これから二次会なんだ。酒飲むつもりで来ればいいじゃん」
 その後も強引に誘われ、結局、押しの弱い僕が合コンに出席。それが翌日には早速猫丸先輩にばれていて、丸一日無視された。一夜明けてやっぱり無視された僕は、とにかく話を聞いてもらおうと、使われていない資料準備室に半ば強引に猫丸先輩を引っ張り込んだ。
「なんだよ」
「すみませんでした!」
 けだるそうにする猫丸先輩に頭を下げる。
「猫丸先輩の誘いを断っておきながら、レポートが終わったのに連絡もせず飲みに行ってしまって、反省してます」
「合コンだろ」
 先輩が冷たい声で訂正する。僕は無意識に自分に甘くしていたようだ。怒った猫丸先輩はそれを許さない。
「猫丸先輩を大事にするって言ったのに、配慮が足りませんでした」
 頭を下げて、じっと待つ。謝る回数が多くても猫丸先輩は赦してくれない。彼の心を動かす言葉がないと駄目なのだ。それが何か、いつもわからないのだが。
 しばらくして、猫丸先輩が口を開いた。
「……八木沢」
「はい」
「これで勝ったら、ちゃらにしてやる」
「え?」
 顔を上げると、猫丸先輩がポッキーの袋をばりっと開けたところだった。
「ポッキー……ですか?」
 まったく事情がのみこめない。猫丸先輩は無表情のまま、ポッキーを一本手に取った。
「強引に誘った田宮にも責任はある」
 田宮というのが、僕を合コンに誘った友人の名前だ。
「今日はポッキーの日だからな、これでおまえさんが勝ったら、このまま赦してやる。でもおまえさんが負けたら、これから三カ月、僕の食費はおまえさんが出せ」
「……はい」
 猫丸先輩の勢いに圧倒されて、僕はただ頷く。木枯らしの吹きすさぶ財布に負けた場合のリスクは高いが、そこは我慢する。猫丸先輩を怒らせて一年間たかられた奴もいるという噂だから、三カ月ならまだ優しいほうだ。僕としてはゲームなどしなくても三カ月奢らせて欲しいくらいの気持ちだったが、猫丸先輩は言い出したら聞かない。
 猫丸先輩がポッキーをくわえ、僕のほうにもう一方の端を突きだす。
「ん」
「……」
 ……これは。
 実際になってみるまでわからなかったが、ちょっとこの光景は、恋人として辛いものがある。唇を突きだす仕草が何とも言えずかわいらしい。でもそんなことを言ったら普段だって怒るに決まっているのに、先輩は既に怒っているのだ。ここでキスなどしたらふざけていると思われて、きっとずっと許してくれない。
 ――― ここで、冒頭のシーンに戻る。
「やぎさわ」
 早くしろよ、とじれたように先輩が言う。その声がまだ低く、彼がまだ怒っていることを示しているのだが、くわえたまま言うものだから、どうしても舌足らずな感じになって、さらにかわいい。小さいと言われるのが何より嫌いな猫丸先輩に、まるで女の子に言うようにかわいいと言っていいものか、まだわからない。
 僕は覚悟を決めて、腰をかがめてポッキーを口にくわえた。猫丸先輩がぽっきーを齧りだす。僕も反対側から食べていくが、互いの食べる振動でポッキーがぶれて、なかなか力を入れるのが難しい。それに、こんなに近い距離に猫丸先輩の顔があるのが恥ずかしくて、どこを見ればいいのかわからない。結局、もう二、三センチでポッキーがなくなるというところで、僕の方からぽきんと折れてしまった。
「おまえさんの負けだな」
 猫丸先輩が残りのポッキーを食べ尽くす。
「三カ月たかってやるから、覚悟しろよ」
 その口元に、にんまりと笑みが浮かぶ。次の瞬間にはもう上機嫌で、これから何を食べに行こうか考え始めている。
「やっぱりまずは寿司だな!」
「……はい」
 僕は近くのATMの場所を思い出していた。
 ――― 結局、この「三ヶ月間食費代持ち」が猫丸先輩からの遠回しなデートのお誘いだと気付いたのは、随分後になってのことだった。





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≫三年後。