月の綺麗な夜だった。明日はきっと晴れ、蕾のほころびかけた桜の花が、青い空を背景に美しく咲くだろう。そんな美しい予感に満ちた、春の夜だった。
 妹子は部屋に一人きり。窓を大きく開け放し月光だけを頼りに、床に敷いた布団の上、壁にぴったりと背をつけて座っていた。
 さて、これで太子と会えずに何日が経つだろう。何度目かになる自問自答を、飽きながらも繰り返す。四、五日は気付かない内に過ぎた。六日目にそういえば、と気が付いた。七日目にはそわそわとして、落ち着かなくなった。今日で八日目。いよいよ何も手に着かない。
 明日になればきっと僕の頭はいつも通りはたらいてくれるし、もしかしたら太子にも会える。あの馬鹿はいつだって僕の都合なんか尋ねずに自分の会いたいときに会いに来るんだから、と納得させて、僕は漸く、眠りにつく決心をした。窓を閉めると部屋の中は呆気なく暗い。驚くほど簡単に眠りに落ちた。



 太子と僕が、お互いの気持ちを打ち明け、世に云う《恋人同士》になってから、三月ほどが経つ。一緒に隋に行ってからと云うもの、太子は毎日、それも一日に何度も朝廷にある僕の仕事部屋に訪れたが、それは恋人になっても変わらなかった。
 変化したのはごくごく最近で、一日に太子の顔を見る回数が少し減ったり、または一度も見なかったりした。理由を聞いてもなかなか云おうとしないので厳しく問い詰めると、太子は今また大きな仕事を行おうとしているらしい。それならそうと早く云って下さいよ、仕事しろ、とお決まりのように決然と台詞を返した僕に対し、太子はなおも渋っていた。
 けれど、どうだろう。そんなやりとりから暫くして、太子は顔を見せなくなった。気付いた時には、きっと仕事で忙しくしているのだろう、喜ばしいことだ、と思った。本当に、心からそう思った。けれど、時間が経つにつれて、太子が傍にいないということについて考える時間が増えた。寂しいというのが、その感情に付ける名前にふさわしいのだろう、と、とうとう否定できなくなった。
 今すぐ会いに来て欲しい。
 自分から出向くことは、冠位五位の身には出来ないことだった。事実上この国を統べる《聖徳太子》の仕事を邪魔することになる。心の底からこの国に生きる民のことを考える彼のことを、僕は尊敬していたので。
 だからこの寂しいという気持ちさえ、背徳の感情だった。体の内側がどす黒く染まっていくようで厭だった。もうこんな気持ちは終わりにしたいから速く逢いたいと思えば、更に自分が厭な人間になっていくようだった。悪循環に陥っていたが抜け出す術はわからなかった。
 ああ、速く逢いに来やがれ。
 やけくそのように思う。




 桜の花がひらりと舞った。ふわふわと落ち着かない春の気配が庭に充満しているのを感じる。植物のものに違いないのだが、少し動物のようでもある独特の匂い。この匂いがもたらす春と云う季節が、僕は好きだった。次に何が起こるかわからなくて、なんとなく不安なのに、自分の心も浮き立つようで。全般的に太子を連想させるのだな、と、今年初めて気付いた。春のような僕らの王様。
 会えなくなってもう何日、なんて数えるのは、あまりに馬鹿馬鹿しくなってとうに止めた。風の噂によると、太子は奇声も発さず奇行にも走らず、非常に熱心に仕事に励んでいるらしい。朝廷の誰もがそれを不気味がる中、妹子だけがとても誇らしく、同時にとても憂鬱だった。
 誇らしいのは、その太子の仕事の片鱗を見る時だった。僕に任される仕事の中にも、今太子が行っているらしい仕事の一部を担うものが入ってくることが多くなり、その度に胸が熱くなる。そこには確実に、僕の知る太子の血が流れているのがわかった。そしてそれがこの国の未来を考えたものであることも、よくわかった。彼と共に国造りが出来ることが、僕には誇らしくて仕方なかった。
 けれど、まだ終わらないのかと、憂鬱なのも確かで。
「太子……」
 呟くのと同時に、ことん、と音がした。部屋の戸を控えめに開ける音。
 振り返ると、嘘みたいに太子が立っていた。もしくは冗談みたいに。正装の姿が月光に照らされ、宵闇と桜に映える。
「呼んだか?」
 まるで似合わない気障な台詞に何か云い返そうとしても、僕の体は木偶のように動かない。云いたいことはいくらでもあった筈なのに、何一つ思いつかなかった。思考さえ回転を止め、視線は太子にぴたりと定まり動かない。動き続ける心臓が痛いくらいだった。
「妹子」
 太子は微笑み、ゆっくりと僕を抱きしめる。触れ合って衣擦れの音。温かい体。細い腕。強い抱擁。
――― ごめん、会いに来られなくて」
 ほんとですよ、と云おうとすると声の出し方がわからず、僕はただ頷いた。
「もっと早く会いに来たかったんだけど、いつもいつも馬子さんに見つかっちゃって、というかずっと監視されてて、……ごめんね」
 太子の一言一言で、体の中の黒い部分がどんどん消えていくようだった。急な変化に頭が追い付かない。
「妹子?」
 ずっと黙っている僕に不審を感じてか、太子は僕の顔を覗き込むようにする。
「怒ってた?」
 こくり、と頷く。
「……寂しかった?」
 また、頷く。
「ごめん」
 太子が僕を抱きしめる。彼の匂いが鼻腔をくすぐる。僕はやっとのことで云う。
「でも、もう、全部、いいです」
「うん?」
「来てくれたから」
 薄い背中に手を伸ばして、温かい体を抱きしめ返す。
「そんなことはもう、どうでもいいんです」
 そして僕達は口づけた。










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2010.03.21.
スーパーオキシドラジカルの後すぐ書きました。
可愛い太妹!と思って書いたのですが
そう仕上がっているのかどうか……
太子はほんと、たまに馬鹿みたいに格好いいといい。

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