不随意慕情 の続きです。





 心理学の世界では、人と人とが同じ場所で同じ料理を食べることには彼らの間の心理的障壁を緩和する効果があるらしい。幼年学校の給食制度や、政治活動においてやたらと会食というものが多いのはそういうわけらしかった。同じ釜の飯を食った仲という言い回しも同じ理屈で、共に食事をしたのだからより一層の深い仲である、というわけなのだろう。一ノ宮勘太郎としてはこれらの理屈を全て受け入れるというわけにはいかなかったが、それでもなお目の前で自分の出した味噌汁を飲んでいる蓮見という後輩がこれ以上ない程に眉間に皺を寄せて茶碗を見詰めているのを不思議に思い、自分の分の味噌汁をぐいと飲み干してしまうと問いかけた。
「なんでそんな仏頂面してるの蓮見」
 すると蓮見はきっと顔を上げて勘太郎を睨み、夜中という時間帯を考慮してか押し殺した声で言う。
「なんでこの味噌汁には具が入っていないんだ! これではただお湯に味噌を溶かしただけではないか」
「そーだよだって入れるものないもん。味噌抜きの味噌汁じゃなくて良かったじゃん」
 勘太郎は冗談とも本気ともつかない、つまりいつも通りの声音で答えた。東北旅行から帰ったばかりで食糧など保存の利く調味料しかなかったので、味噌を湯に溶いて出したのだった。もっとも貧乏学生である勘太郎の家に食料らしい食料があることのほうが稀なので、蓮見は勘太郎の常食を食べたに過ぎない。
「それは味噌汁とは言わない! ただのお湯だ」
「何事も心の持ちようだよ、蓮見」
 勘太郎は見た目に似合わない老成した口調で蓮見を諭したが、蓮見は尚も苛々した様子で
「大体お前には計画性というものがないのだ」
と詰る。蓮見は勘太郎の学業に対する態度を詰るときによくこの言葉を使う。計画性。忌々しげに寄せられた眉を見て、もう何度目かになるその小言に真剣に返すのが急に億劫になり、勘太郎は素っ気なく言った。
「そんなことないよ」
 案の定蓮見が怪訝そうに見返すので、勘太郎は仕方なく言葉を重ねた。
「僕はね、ずっと天狗を探してるんだよ蓮見。ただの天狗じゃなくて、特別な特別な、鬼喰い天狗なんだ」
「……またその話か、一ノ宮」
 蓮見は議論に疲れたように溜息を吐く。
「もう聞き厭きた。天狗など実在しない」
「いるんだよ」
 答えた勘太郎をどっと疲れが襲う。肩が重く、全身がだるい。
「僕はずっとずーっと探してきた。年がら年中探し回った。日本中端から端まで飛び回った」
「だから……」
「だけど鬼喰い天狗はいるから僕はそれでも探さないといけないの。計画なんて立てる間もなく、死に物狂いで」
 そうして勘太郎がちらりと蓮見を見ると、彼は今にも「もう好きにしろ」と言わんばかりの顔だったが、黙っていた。こういったやりとりはもう何度も二人の間で交わされていたので、お互いに何も期待できないのはわかっていた。妖怪は存在しないと言いきる蓮見に勘太郎の行動理念は理解不能だし、人に理解されないのに慣れた勘太郎は蓮見の理解もとっくに諦めていた。今日はこれで潮時だなと、勘太郎は蓮見に帰るよう切り出すタイミングを計り始めた。
 ややあって、蓮見が口を開いた。
「それがお前の信仰なのか」
 突然出てきた単語に勘太郎は面喰らったが、すぐに気持ちを整えて、
「そうだよ」
「私は信仰を持たない」
「神がいないと言うのは立派な信仰だよ」
 穏やかに言う勘太郎に、ああと蓮見は納得したように頷く。
「神などというものは人間が作り出した妄想に過ぎない。私が信じているのは己のみだ」
 その言葉にどうしようもなくおかしくなって、やっぱりねえと勘太郎は笑ってしまう。それでこそ蓮見だと半ば感心するような心持ちで。
「生真面目なお前らしいよ」
「馬鹿にしているのか」
「そんなことないよ」
 いかにも楽しげな口調からからかわれていることがわかって、今度は蓮見が肩を落とした。
「帰る」
「うん。明日は大学に行くから」
「……ああ」
 思わず「来なくてもいい」と言いそうになったのを、蓮見は辛うじて飲み込む。勘太郎のペースに巻き込まれ、売り言葉に買い言葉という悪癖がついてしまった。
「沼田先生の好きなお饅頭買ってきたしねー」
 あくまで楽しそうに言って、勘太郎は蓮見に傘を渡す。蓮見はそれを受け取り、一度外の冷たい雪を見てから、勘太郎に視線を戻した。
「宗教学では神は二つに分類できる。人を救う神と、救わない神だ」
 勘太郎は一瞬だけきょとんと蓮見を見詰めたが、すぐに彼らしさを取り戻した。その眼差しが凪いだ湖のように落ち着いて、潤んでいた。人を振り回して愉しむ彼には珍しく、見透かすでも見下すでもなく蓮見を見詰めていた。
「お前の神はどちらだ」
「前者だよ」
 ばいばいと勘太郎は笑み、蓮見はああと答えて扉を閉めた。冷たい風が頬を撫ぜ、熱くなった頭を冷やした。積雪を踏みしめながら、蓮見は深く溜息を吐く。問い詰めた蓮見の言葉に、凪いだ勘太郎の瞳は微塵も動かなかった。彼には深い信仰がある。誰の言葉にも揺るがない信仰。彼が永遠に人間を顧みないことを蓮見は知った。何故なら彼の神が救う人間は、彼ただ一人だからだ。
 人が人を救えないから神がいるのだと哲学者は言う。勘太郎は人に救われないのに救われたいから鬼喰い天狗を信じるのだ。蓮見は今以上の救いを求めないから己を信じていればいい。交わることなき平行線で神を論じるなんて滑稽だ。そう思うと神に縋る気持ちが少しわかるような気がした。










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2011.04.25.
蓮勘学生時代腐れ縁編。
春華以外の人が勘ちゃんの相手しようと思ったら
きっと強引な方がいいと思います。
鬼喰い天狗が見付けられなくてどんなに辛くても、
他の人とは恋に落ちられない勘ちゃん。


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