しんしんと降る雪の中を僕は耳鳴りを耐えて進んでいました。
 酷く寂しく、なんとなく物悲しい気分になる雪の夜でした。誰もが分厚い襟巻に首を埋め、俯きがちに歩いていました。すれ違う度に雪を踏むざくりざくりという音が近づき、また遠ざかって行きました。自分も同じように歩いているのかと思うとぞっとするような、魂が雪に吸い込まれたような雰囲気でした。無性に不安に駆られて立ち止まっても、誰も僕のことを見ません。現ではないような、そんな寂しい雪の夜でした。
 僕には東北の旅から夜汽車で戻って来て、家へ帰る道程でした。勿論道楽旅行ではなくて、僕の生業である妖怪退治と鬼喰い天狗探しが目的の旅でした。厳しい寒さの中を鬼喰い天狗を探して歩き回りましたが、とうとう彼を見付けることはできず、僕は随分傷付き落ち込んでいました。そして上野の駅へ降りたって、東北とはまた違う、穏やかだけれど一層儚い東京の雪景色の中を歩いてしばらくすると、奇妙な耳鳴りがしていることに僕は気が付いたのです。
 どん、どん、と、重く身体の底から響く和太鼓のように、それは低く一定のリズムで僕を包んでいました。いつから始まっていたのか、雪の底に静まり返った夜汽車の中で気がつかない筈がありませんから、きっと東京に着いてからだろうということは検討が付きました。耳鳴りではなく、ひょっとしたらこれは幻聴と呼ぶのが正しいのかも知れません。耳をきつく塞ぐとその音は一層大きくなりました。いずれにせよ僕の外で生まれている音ではないようでした。
 無表情の人々は困惑する僕を気にも留めません。僕も気を紛らわせるために他のことを考えようとしました。すると不思議にも蓮見という名前の後輩のことが思い出されました。
 そもそも、僕がこのような極寒の時期に東北へ行くことになったのは蓮見が原因でした。彼は僕がなかなか学校に来ないのに立腹して、今回の試験期間中には僕を大学に缶詰にすることにしたのでした。僕は大学の試験を終えるとすぐさま駅に走り上野へ急ぐと、東北へ向かう電車に飛び乗りました。蓮見はきっと顔を真っ赤にして怒っているか、白い息を吐いて街中を捜しまわっているだろうと列車の中で想像するのは大変な愉悦でした。夜中になって東京を大分離れた頃、窓の外に雪が降るのが見えました。甚だ可笑しなことに、冷気を避けるために窓から離れ、荷物の中から薄い毛布を出してくるまりながら、僕は未だ見ぬ鬼喰い天狗ではなく蓮見のことを考えていたのです。
 出会い頭の接吻はふとした悪戯心でしたことでした。彼の薄い唇はかさかさと渇いており、それが僕の心のどこかを満足させましたが、あのとき胸の高鳴りや視界の煌めきなどの恋情を示すものは全くありませんでした。けれどしばらくして蓮見が僕との接吻を忘れてきたように見えた頃、僕は彼にそれまで以上の興味を抱いたのです。彼が最初に示した侮蔑や羞恥や恐怖や、そしてほんの少しの好意は僕にとって慣れ親しんだものでしたが、その次に蓮見が示した怒りという感情は新鮮に感じられました。僕は他の人から見れば全く取るに足らない妖怪退治や鬼喰い天狗探しを優先して、何度も大学を留年していました。やっこちゃんや沼田先生は度々心配してくれましたが、僕のこのとても頑固で他人に譲らない性格をよく知っていたので、怒ることはありませんでした。
 蓮見は多分馬鹿なのでしょう。
 侮蔑はそのまま残って最初に言った通り彼は僕のことを呼び捨てにしましたが、羞恥を抑えて妖怪について意見を交わす内に恐怖は薄れ、そしてほんの少しの好意は大きな怒りに育ったようでした。それは最早心配という生易しいものではありませんでした。生真面目で融通の利かない彼は、どうやら僕の言動が片端からお気に召さないようで、顔を合わせば怒鳴りつけてくるのです。曰く計画性がない、いい加減だ、人の気持ちを考えたことがあるのか、などなど、僕を叱ることに関して彼の右に出る者はいませんでした。僕はそれらを鬱陶しいと感じましたし蓮見という男はなんてしつこいのだろうと思ってしばらく彼を避けてみたこともありましたが、何故だか彼は僕の家まで来ては大学に引っ張っていったり民俗学の論文を読ませてみたり、あまつさえ食事や銭湯にさえ僕を連れて行くのでした。彼はろくに僕の顔も見ずに、いいから来いと言って僕の手を引くので、最初はまともに抵抗していた僕もいつしか諦めました。本当に、なんて馬鹿な後輩なんでしょう。
 今は何をしているでしょう。古い本の匂いに満ちた静謐な研究室にも、冷たい木の床がぎしぎしと鳴る家にも、僕はいません。僕は鬼喰い天狗に会いに行っていたんです、蓮見、会えなかったけれど。君がいるわけがないと言う度に、僕がちくりと心を痛ませる鬼喰い天狗に、僕はどうしても会いたいんです。君は信じてくれないんでしょう。
 どん、どん、と低い音は相も変わらず響いています。人通りの少ない路地に入り、他に聞こえるのは雪を踏む僕の足音だけでした。僕は次に鬼喰い天狗の春華のことを考えることにしました。
 僕が春華を探し始めて、もう随分長い時間が経ちました。天狗に纏わる伝承がある土地を訪ねる内に、いつの間にか日本全国を旅してしまいました。けれど彼にはまだ会えません。彼の封印を解いて、春華と名付ける日のことを子供の頃からずっと思い描いているのに、僕はまだ彼がどこにいるのかもわからないのです。彼がいることは間違いないのです。なにしろ僕は妖怪くんと友達で、見えるし触れるしお喋りだって出来るのです。妖怪くん達が教えてくれた鬼喰い天狗の存在が嘘なわけはありません。春華はいるのです。
 蓮見のように妖怪をただの人間の思い込みの産物だと考える人達は大勢います。彼らには見えないのだから無理がありません。だから彼らがどんなに酷い言葉で妖怪の非実在を主張しても僕はまるで気にしません。だって春華はいるのですから。
 けれど今、誰に否定されたわけでもないのに、僕は心の中で必死に春華に呼びかけていました。どこにいるの? はやくあいたいよ、はるか。答えは勿論ありません。東北への一人旅がちょっぴり感傷的な気分にしていたのでしょう。僕は誰も見ていないのを幸いに、雪の降る中に立ち尽くしてぎゅっと眼を瞑りました。雪に埋もれた足や傘を持つ指先が寒さを訴えましたが、僕はそれすらも受け入れました。身体の感覚がなければ今にも精神がどこかへ行ってしまいそうでした。しんしんと足下へ降り積もる雪と僕とはどう違うのかもわからなくなりそうでした。
 そのときどこからか人の声がしました。若い男の声でした。その声は僕の名前を怒鳴っていました。
「一ノ宮!」
 蓮見が寒さに頬を赤くして、白い息を吐いて僕の名前を呼んでいました。僕は呆然として彼の名前を呟きました。
「はすみ」
「何をしてるんだ貴様は! こんなところで立ち止まって、死ぬ気か!」
 彼は普段冷静な男なのですが、時に思考が飛躍し過ぎるきらいがありました。いくら寒くても雪の中に数分間立ち止まったくらいで死ぬわけがありません。僕はそれよりも気になったことを彼に尋ねました。
「……なんでここにいるの?」
 あと一つ角を曲がれば僕の家が見えるところでした。
「別に貴様を心配してきたわけじゃないからな! たまたま通りかかっただけだ」
 蓮見はその後もごちゃごちゃと言っていましたが、僕にはそれだけで充分でした。どん、と音が鳴り、同時に僕の左胸で心臓が動くのがわかりました。冷えた心臓は力強く動いていました。
「ありがとう」
 お礼を言うと蓮見の顔に少し赤みが差しました。僕の鼓動は規則正しく聞こえています。どうしてこの心臓は少しも急いでくれないのだろうと、僕は少しだけ残念に思います。











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2011.03.09.
春華と会う前には蓮見に少しだけ依存していたりしたら。
蓮見は漢前度120%増。


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