人々が年越しの準備に勤しんでいる大晦日も、有限会社ダム・オックスには何の影響も及ぼさない。ごみの日はもともとよくわかっていなかったし、スーパーの特売はいつも通りの時間に行けばよかったし、テレビの特番にも大して期待していなかった。
けれど夕飯時、開いている店を探すのに苦労したおかげで、二人はようやく今日が大晦日であることを認識した。そして折角だからということで駅前の蕎麦屋に入って年越し蕎麦を食べることにした。
「これはまずいですね大将」
「まずいな」
「明日から何も食べられなくなるんじゃないですかね」
「いや、この店は開いている」
「でも三食ずっと蕎麦なんてアタシは嫌ですよ」
「僕も嫌だ」
はああ、と二人分の溜息が重なった。辛気臭いねえ、と蕎麦屋の主人に声をかけられて、ええまあ、と曖昧な笑みで返す。
注文した掛け蕎麦が来ると、アントニオは早速と言わんばかりに七味唐辛子を振り掛ける。
「ああっ」
「え、なんですか」
「そんなに唐辛子かけたら味がわからなくなるだろう」
「大丈夫ですよ。大将もどうです?」
「いや、いい」
石動はげんなりとした表情で固辞した。アントニオが不思議そうに首をかしげる。
「一味じゃなくて七味ですよ。七味唐辛子は辛いだけじゃなくて風味を調え、風邪を予防する漢方の役目まで果たしているんですから」
「本当か……?」
「もちろんですとも」
自信たっぷりに頷くアントニオを細い目で見返す石動だったが、
「でもかけない」
「おいしいのに。まあアタシは自分の好みを人に押し付けたりしませんが」
「ちょっと待て、まるで僕が自分の好みをおまえに押し付けてるみたいな言い方じゃないか。おまえの味覚がおかしいんだ。この前のキムチ鍋だってどばどばキムチ入れて、キムチの味しかしなかった」
「キムチ鍋っていうのはそういうもんです」
「絶対違う……」
「ほらほら大将、早く食べないと伸びちゃいますよ」
「わかってる!」
会話の流れを切るように箸を手に取る。アントニオもなんでもないような顔をして「いただきます」と手を合わせ、しばらくずるずると蕎麦を啜る音が空間を支配した。
「ああそういえば、去年開いてる店をメモに残しておきませんでしたっけ」
「あっ!」
アントニオの的確な指摘に、石動は丼の底に沈んだ蕎麦を掬い取る作業を止めて向き直った。
「そうだ、あれどこにやったっけ?」
「さあ、どこでしたっけ……?」
依頼人に呆れられるほどに散らかったダム・オックスの事務所で、たった一つの紙切れがどこにあるのかなんて、誰にも把握しきれるものではない。
「よし、帰って早速探すぞ、アントニオ」
「はい、大将」
蕎麦屋の主人に「良いお年を」と声をかけられながら店を出ると、もう今年も終わるのだなあという感傷が石動を襲った。普段会うのがアントニオばかりなものだから、「良いお年を」なんて挨拶、すっかり忘れていた。
「なあアントニオ」
「はい」
「良いお年を」
「大将、そういうのは――― 年越しの瞬間に会える人には言わないと思うんですけど」
「言って見たかっただけだ。もう、いいだろ別に」
気恥ずかしさから、石動は歩みを速めてアントニオの一歩先に出る。
「いいですよ」
アントニオが追い付いて笑った。
「大将、良いお年を」
……何を言っても様になるんだから、こいつの容姿は本当に得だ。そう思ったが、まあ、悪い気はしなかった。
深夜十一時を回って。ダム・オックスの事務所内はまだ混沌の中にあった。毎年惰性で見ている紅白歌合戦がBGM代わりとなっていたが、二人とも全く聞いていなかった。
「うーん、ないなあ」
「ないですねえ」
「諦めよう」
「おお、さすが大将諦めが良いですね」
「潔いと言ってくれ」
細かく訂正すると、石動はソファにどっかりと腰を下ろした。その横に当然のようにアントニオが座る。
紅白は既に最終決戦を迎えようとしていた。派手な衣装の女性が一人と、国民的アイドルの男性グループが歌うのみ、というところらしい。
「アタシは白に賭けます」
「見てないくせに。大体、毎回白の方が勝率高くないか?」
「そんなことないです。さっきの中間集計では赤が勝ってました」
それも石動は見ていないので真偽は定かではない。
「賭けるにしても、一体何を賭けるんだ?」
「それは勝ったら言います」
なんとなく嫌な予感がして、石動は少し眉をひそめる。だがアントニオはにこにこと笑っているばかりなので、結局は「今年は赤が勝つよ」と言うしかなかった。
「じゃあ集計までちょっといちゃいちゃしていましょうか」
「はっ?」
「ほら大将、膝枕してあげますから横になって」
「え、僕は紅白見るからいいよ」
「見る気なんてないくせに」
その通りなので石動はやはり何も言えず、アントニオの手に導かれて彼の膝に頭を横たえた。アントニオの手が石動の髪を、頬を、首筋を、ゆっくりと撫でる。その感触に身を任せながら、司会者が次の歌手を紹介するのをぼんやりと聞く。心地良い時間だった。今年に別れを告げる慌ただしい空間がこんなに近くにあるのに、石動の時間はいつもよりもゆっくりと流れていた。
「……アントニオ」
「はい」
「その……今年もありがとう」
「アタシのほうこそ、ありがとうございました、大将」
紅白の最終投票。緩やかな時間が終わりを告げた。結果は白の圧勝だったのだ。
こういうのって普通僅差になるようにするものじゃないのか、と不満そうに口を尖がらせる石動と対照的に、アントニオは満面の笑みを浮かべる。
これから近所の神社に二年詣りに行くのが毎年の習慣だった。外からは早くも除夜の鐘の音が聞こえる。
「で、何が望みなんだ?」
渋々聞いてやると、アントニオは笑顔で右手を差し出す。石動はその手と笑顔を交互に見てきょとんとしている。
「手を繋いで行きましょう」
アントニオは笑顔のまま言ってのけた。石動は何かを言いかけ、でも言えずに五秒程口を開けたまま固まった後で、顔を真っ赤にして絞り出すように言った。
「なんで、それが、賭けの報酬なんだ!」
対するアントニオは飄々と嘯く。
「アタシがそうしたいからです」
「男同士で手を繋いでたらなんて言われるかわかってるのか? 絶対嫌だ!」
何があっても嫌だと態度で示すべく、ぷいと横を向くと、
「……駄目ですか?」
声のトーンを落とし、小さな声でアントニオが言った。さっきまで輝くような笑顔だったのに、もう泣きそうな顔をしている。ずるい、と石動は口に出さずに思う。こうすれば石動が断れないとわかってやっているのだ。
溜め息を一つして、
「わかったよ」
と言った途端にアントニオがまた笑顔になって、捕まえるように石動の左手に自分の右手を絡める。指が交互になっている、いわゆる恋人繋ぎだったが、手を繋ぐということ自体に慣れていない石動は違和感すら覚えなかった。それでまたアントニオがありがとうございますとにこにこ笑う。
一度手を離してテレビを消し、戸締りをして、アントニオは石動にコートを着せてやると、再び手を繋いだ。あと数分で新しい年を迎える空気は、清冽で気持ちが良い。左手がとても暖かく感じた。風に晒される分、コートのポケットに入れたもう一方の手よりも寒い筈なのに、重なり合った掌がじんわりと熱を伝える。
石動の希望に従って人目に触れないよう、アントニオは出来るだけ人通りの少ない道を選んだ。すれ違う人も追い抜く人もいない道で、石動は恥ずかしさを誤魔化すように口を開く。
「今年はたくさん依頼が来るといいな」
「エアコンも効きが悪くなってますしね」
「うっ」
「ところで今日の朝ごはんとかどうしましょうね」
「あっそういえば。……まあ、いざとなったらカップラーメンがあるから」
「ですね」
その可能性に石動よりも早く思い至っていたのだろう、アントニオはくすくすと笑った。石動が弁解しようと思った瞬間、左手が強く握り直される。
「今年もよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
石動もその手を握り返した。その手はやはり暖かく、まだ神社には着かなければいいのに、と声には出さず思った。
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2012.01.01.
2012年お正月の過ごし方・アン石編。
石動さんとアントニオはだらだら喋っていそうなイメージなので
やたらと会話シーンが長くなってしまいました。
かわいい石動さんとかっこいいアントニオを
目指したのですが目指しただけに終わりました。
おまけというかリサイクルです……こちら