後に芭蕉が『奥の細道』と題した紀行文を書く旅に、曽良を伴い発った数日のことだった。



懺悔の値打ちもない




 マーフィー君が殺された。
 首、両手、両足を乱暴にもぎ取られ、各部の継ぎ目から無惨に綿が出ているのである。
 無論、下手人は曽良である。
 旅のメンバーが芭蕉、マーフィーくん、曽良である以上、芭蕉(被害者)、マーフィーくん(被害者)、曽良(加害者)の組み合わせしかあり得ないのだ。
 そして芭蕉は、本気で怒っていた。
「どうせ君がやったんだろ! マーフィー君に何てことするの曽良くん!」
「いい年したおっさんが、汚いぬいぐるみに頬ずりして涙で濡らしている光景が驚くほど不愉快だったもので」
「原因は君じゃないかー!」
 スランプ中の俳句を散々に貶され、かと云って反論は許されないので泣く泣くマーフィー君を抱いて眠った翌朝、起きると目の前に惨劇が広がっていたのだった。呆然として「何これ……夢……?」と呟く芭蕉に、先に起きて支度をしていた曽良がやって来て、涼しい顔で云ってのけた。「ああ、起きられましたか」
 そしてその顔は訳もなく整っているのだ。
「もう嫌だ!」
 一連の流れを思い出し、再び激昂して芭蕉は叫んだ。
「君と一緒に旅をしてまだ数日だけど、君が私のことを師匠として敬っていないのはよくわかったよ! もう嫌だ!」
「何がそんなに嫌なんですか、芭蕉さん」
「君と旅を続けるのがだよ!」
 芭蕉は空気を叩き、地団駄を踏んで怒りを表した。年に似合わぬ幼稚な仕草は彼の専売特許である。
「やっぱり君を同行者に選んだのは間違いだった! もうこんな旅やめてやる!」
「はあ……」
 曽良は気持ちの読みとれない、相槌とも溜息ともつかない様子で云った。この師を師とも思わない弟子は、滅多に表情を変えない。綺麗な造りをしているから笑ったら素敵だろうに、と師匠が思っていることもこの弟子は知らない。
「じゃあ、僕は帰りますので」
「えっ!?」
 止めるタイミングを見失ったように四肢を振り回していた芭蕉の動きが、ぴたりと止まった。呆然として、曽良を見詰めるしかない。
「次の同行者は誰がよろしいですか? 僕の差し出口ですが、杉風さんなど良いのではないでしょうか」
 普段と変わらぬ様子でそう云いながら、芭蕉と目を合わそうともせずに曽良はてきぱきと荷造りを始める。
「えっ、ちょっとあの、曽良くん……」
「僕以外のどなたとでも、あなたは旅を続けられる」
 曽良の口調は乱れなく揺るぎなく、静かで断定的だった。つまりいつもと全く変わらなかった。
 芭蕉に対して自分が干渉する隙などない、というのが彼についての曽良の評価だった。何をしても何を云っても、彼は次の瞬間には忘れたようにけろりとしている。曽良の存在など取るに足らないものなのだろうが、それでも隣に置いてくれるのならばそれでいい。しかしそれを拒否されるのならば、最早彼が俳句を詠みさえすれば良いのである。
 旅に同行できないのは残念だった。けれど彼に汚いぬいぐるみに縋るのを許し、謝ってまで、共に旅をさせて欲しいと請うつもりはなかった。今までにも芭蕉は何度も曽良以外の人間と旅をしているのだから、今回も最初からそうだったと思えばいいのである。
 しかしいくら心中で云い聞かせても、実際に芭蕉が曽良に未練なく笑う様子を見ようとは思えず、わざと彼を視界に入れないようにして荷造りを進めた。
「……私……」
 ぐすっと鼻をすする音と共に、芭蕉が声を漏らした。泣いているのか。――― そんなことがあるものか。曽良はまだ芭蕉を見ない。
「私、曽良くんじゃなきゃ嫌」
 曽良は芭蕉を振り返った。涙で顔を濡らし、袖で拭ってはまた濡らし、止めどなく涙を流して泣いていた。
 今度は曽良が呆然とする番だった。これは誰だろう。僕の知っている松尾芭蕉は、僕などに執着する人ではなかったのではないか。どこまでも自分勝手で、好意にしか擦り寄らない、俳句だけが取り柄の――― 僕の、師匠。
 曽良が言葉を失っているのに気付かず、芭蕉はだんだんとしゃくりあげるように泣いて俯く。
「君、ほんとに、すっごく、……怖い、けど……でも、優しいって、知ってるから」
「……」
「私、最近スランプ気味だけど、……君となら良い句、詠めるかも、知れないって思って、……今度の旅は君と、一緒って、決めてたの」
 嗚咽と混じって聞き取りづらかったが、なんとか芭蕉はそう云った。それさえ云えば充分だと思ったのだろう。けれど曽良が何も言葉を返さないので芭蕉はいよいよ本格的に泣きに入り、体を折って畳にくずおれた。顔が見えないまま、嗚咽と鼻をすすりあげる音だけが無言の部屋に響いた。
 その様子をなす術もなく眺めながら、どうやらこの人は僕のことを必要としているらしい、と曽良は考えていた。
 この人の俳句に、僕が影響を与えることもあるらしかった。
 だとすれば、彼の世界に僕はいるのだ。いや、ずっと昔からいたのだろうか、初めて会ったときからずっと? ――― わからない。
 けれど彼が、曽良と共に俳句を詠むというのなら。
「……芭蕉さん」
 この時の曽良の笑顔を、むせび泣く師匠は見られない。
「旅を続けましょう」










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ドライアイスセンセーションの続き。
そろそろ恋に落ちてもいいんじゃないのか。
泣く師匠の可愛さは異常。
マーフィー君はこの後曽良くんがお裁縫で直しました。


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