「君、結婚式に来る気はあるかい」
3月31日、イタリア。夜6時を過ぎてかかってきた電話が、家に帰って来たばかりの要を急かした。
「結婚式?」
「そう」
国際電話の向こう側で、琴宮が頷く姿が容易にイメージできた。腰に手を当てて、鷹揚に。今はロシアにいるんだったか。壁のコルクボードに飾ったポストカードを見ながら、三ヶ月前に会った時のことを思い出す。
「おめでたいね。誰の?」
琴宮と要に共通の友人はいないはずだが。そう思いながら尋ねると、
「私のだよ」
穏やかな声で琴宮が答える。
「え?」
「私の結婚式。来るかい」
琴宮が言葉を続ける前に、要は受話器をクレイドルに戻した。叩きつけるように。がちゃんと大きな音が部屋に響く。
要にしては乱暴な手付きで、ポストカードを剥がした。オーロラが美しい裏面を引っくり返し、表に記載された差出人の住所を見る。ロシアの極東、ハバロフスク。
イタリアはもう暖かい。一度しまった冬服を、要は部屋の奥から引っ張り出した。
4時間後。
要はハバロフスクでマフラーを買っていた。イタリアに比べてロシアは寒すぎる。
時差を直していない腕時計は10時を指している。ロシアとの時差はどれだけだったか、ここの空は既に明るく、人々は活動を始めている。
ポストカードに記された住所に向かうと、高そうなホテルだった。受付で部屋番号を告げ、ホテルマンと一緒にエレベーターで上へ。人の気も知らず、最上階なんて贅沢なことだ。苛立つ気持ちを要は笑顔の裏に隠した。
ホテルマンが呼び鈴を押す。扉のロックが外される音を聞いて、要はホテルマンを帰した。
扉が開く。要はその隙間に体を滑りこませ、扉を開けた琴宮を壁に押し付けた。背後で扉が閉まる。
部屋の中は暗く、要は目を慣らすのに時間がかかった。
「やあ、おはよう要」
「おはよう琴宮くん」
ぐ、と要は琴宮の胸元の蝶ネクタイを引っ張った。手で結ぶタイプのそれは、普通のネクタイと同様に首を締めるのに充分な機能を持っている。琴宮が苦しそうに眉をひそめた。
「情熱的な挨拶をありがとう」
「でしょう? 電話で恋人に別れ話をする男にはお似合いの挨拶だと思って」
要は目を細めた。琴宮は両手を上げてみせる。
「要、今が何時かわかってるかい」
「さあ。ロシアとの時差を調べる時間がなかったもので」
「では教えてあげよう。今はグリニッジ標準時で3月31日の午後9時。ここハバロフスクでは4月1日の午前7時だ。ちなみに君に電話をかけたときにこちらは午前3時だった」
「教えてくれてありがとう。それで、誰と結婚するって?」
「そう引っ張らないでくれないか。シャツが皺になる。つまり私が言いたいのは、今日がエイプリルフールだってことだ」
要の力が緩んだ隙に、琴宮はその手をとってネクタイから外そうとする。しかし、要はそれを許さなかった。ぐ、と再びネクタイが締められる。
「つまり、嘘をついたってこと?」
柔和な顔つきに似合わず、琴宮を睨む眼光は依然として鋭い。
「すまない」
「僕と会っていない間に、二人の女性とデートしてることについては」
居場所がないように机の上に放置されたネクタイとハンカチ。二つは全く違う趣味をしていて、しかも琴宮の趣味ではない。贈り物だとすぐにわかった。
「一緒に食事をしただけだ」
「その言葉を信じたいのはやまやまだけど、嘘をつかれた後には難しいな」
「もう嘘はつかないよ。誓おう」
琴宮は要の目を見てゆっくりと言い聞かせた。その目をたっぷり十秒間見つめ返し、琴宮の足を踏みつけてから、要は体を離した。腕を組み、ネクタイを緩める琴宮をじとりと眺めた。
「エイプリルフールだからって、ついていい嘘と悪い嘘があるでしょう」
「すぐに嘘だって言うつもりだったのに、君が電話を切るから。その後も何度もケータイに電話したのに繋がらなかった」
琴宮は肩をすくめた。要は決まり悪そうに返す。
「ヘリではケータイ切らないといけないんだ」
「ヘリで来たのか。オーケストラの仕事じゃないと使えないんじゃないのかい」
「……友人に頼んで、こっちのオケで一回指揮させてもらおうかな」
「悪いね」
琴宮は要のマフラーを外し、コートを脱がせた。それをそのまま床に落とし、冷たくなった耳に唇を寄せる。
「急いで来てくれてありがとう。愛してるよ、要」
「……人の愛情を試すようなことしないでよ」
琴宮の首筋に手を当てる。ひんやりと冷たい感触に琴宮は僅かに身を捩ったが、要から離れようとはしなかった。要は根負けしたように琴宮の背中に手を回した。
「コートが皺になってしまうな」
「では、手短に済ませよう」
遠く離れていた恋人が今は腕の中にいる。嘘から生まれた幸福。まだ完全に許したわけではなかったけれど、要はとりあえず、琴宮のキスを受けることにした。
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2012.04.01.
エイプリルフール・琴要編。
かっこいい要さんを目指しました(当社比)。
要さんのフットワークの軽さは異常です。
琴宮さんレベルの美しさになると食事だけでも贈り物がもらえます。