※貞カヲシンです。




 小さなボストンバッグ一つ持って渚が訪ねてきたのは、つい数時間前のことだった。
 露天風呂に入るためにタオルを買いに行った彼を部屋で一人待ちながら、漠とそれを思い出す。
 鼻の頭を赤くして、ぐるぐると巻いたマフラーに顔を埋めるようにした彼は、だから下から睨むような角度でこちらを見詰めて、ただ行こう、と一言を強情に繰り返した。
「行こうって、どこに?」
 どこでもいい、と彼は焦るように短く言い捨てたが、僕が眉を寄せたのを見ると、
「嘘、えーと、そう、温泉に行こう、温泉」
と慌てた。いつも余裕のある彼の目に逼迫した色が浮かんでいるのが物珍しく、同時におかしかったので、僕はついうっかりと、「温泉ねえ」と相槌を打った。
「そうだよ温泉に行こう、君も行きたいって言ってたじゃないか」
 いつだったか、そんなことを言った記憶が確かにある。はっきりとは覚えていないが、同居している温泉ペンギンのペンペンの話になったときだろう。
 今日はミサトさんは仕事でネルフに行っていて、渚が唐突に訪ねてきた彼女の家には自分とペンペンしかいなかった。ペンペンはちょうど風呂に入っていて、風呂場から漏れる熱気と湯の匂いが温泉という提案を魅力的に感じさせた。気が付いたらいいよと口が言っていて、ぱあっと顔を明るくした彼をリビングに通して待たせると、手早く荷物を作りミサトさんに簡単な書き置きをして、十分後には渚と二人で電車に揺られていた。
 僕達の住んでいるのは箱根だから温泉には事欠かないのに、渚は路線図をじっと睨み、千円札を出して一番お釣りの少ない切符を二枚買った。一人五百円でどこまで行けるかなんてたかが知れてると思うのだけど、まだ中学生で、ネルフの養い子である彼が自由に出来るお金なんてもっとたかが知れていた。行きたいと言い出したのは彼なのだから、僕は黙ってそれを見ていた。
 途中でローカル線に乗り換えて、がたんごとんと電車に揺られて一時間。僕達はあまり喋らなかった。家を出たときから言葉少なだった彼は、いよいよ一言も喋らず黙ったまま、人のいなくなった車内で僕の手をぎゅっと握った。その手がとても熱かったから、僕はただ繋いだ手を見詰めて、逸らすことしかできなかった。傾き始めた陽の光にきらきらと透ける渚の白い髪が、やけに綺麗に見えた。
 終点の一つ前の駅で降りると渚は普段通りお喋りな彼に戻って、早速駅員に近くに温泉宿があるかどうかを聞いていた。
「温泉、あるって。良かったね」
と彼に嬉しそうに笑いかけられて、僕はそれまでずっと考えていた、ここまで来て良かったのだろうかという問いかけを忘れることにした。僕達は二人共エヴァのパイロットで、きっと今、使徒が来ても間に合わない。その責任を忘れることにした。知ってか知らずか渚が笑う。いつも通りの笑顔で。
 歩いている内に空は夕焼け。畑と田んぼの続く田舎の道を、渚はぶんぶんと荷物を振り回している。重ければ重いほど遠心力が大きくなる筈なのに、渚は時計回りに振ったり反時計回りに振ったりと、随分自在に鞄を扱う。
「それ、何が入ってんの?」
「何も」
「何も?」
 小振りのボストンバッグを開くと、携帯電話と財布しか入っていなかった。旅行といったらボストンバッグなんだろ、というのが彼の弁である。相変わらず、変なところで変な知識を仕入れて来るのには敵わない。
 着いたのは老舗の旅館といった体で、もっと寂れたところを想像していた僕が目を瞠っていると、穴場らしいよと渚が得意顔で言った。シーズンオフだからか宿泊客は数組しかなく、予約をしていなかった僕達が通された部屋は、それなりに上等の部屋に思えた。畳の匂いが気持ちいい。部屋の奥のベランダからは、畑と田んぼと、満天の星空が見えた。
「シンジくん、おまたせー」
 帰ってきた渚は、開け放されたベランダの窓を見てうわっと嫌そうな顔をする。
「寒いよ、どしたの?」
「いや、別になんでも」
 星が綺麗だったから。情緒未発達の気がある彼に言って、もしふうんとそれだけで済まされたらまた喧嘩をしてしまいそうだったので、言わないことにした。誰も知らないところにたった二人、喧嘩をするのは嫌だった。
 彼の買ってきたタオルと備え付けの浴衣を持って、連れ立って露天風呂に向かう。冷えた空気がどこからか忍び寄って、二人共自然と早足になり、やがて競うように走りだした。脱衣場に着く頃にはうっすらと汗までかいていて、堪えきれないといったように渚が吹き出す。なんだよと言おうとして、けれどやっぱりおかしくて、僕もつられて笑ってしまった。
 広い露天風呂に人影はなく貸し切り状態で、渚が泳ぎたがるのを止めるのに苦労した。しらしらと立ち上る白い湯気の中で、彼の肌がほんのりと色づく。思わず逸らした目を上にやると、さっきよりも広い空に目を奪われる。頬に当たる風が冷たいのも心地よく、渚の話しかけるのに適当な返事をして眺めていたら、不満気に頬を膨らませ、のぼせるよと言い捨てて一人で先に上がっていった。それに呆れてさらにしばらく湯に浸かり、さて出ようとすると、くらりと立ち眩みに襲われた。しまった、のぼせた。
「だから言っただろ」
 温泉の縁につきそうになった手を、がらりと脱衣場との仕切りの扉を開いて走ってきた渚に掴まれる。
「本当、君って世話が焼けるんだから」
 それはこっちの台詞だと言おうとしたが、悔しいことに渚に肩を貸されるのが楽で、僕は黙って肩を貸されるしかなかった。手早く浴衣に着替えた渚に手伝われてなんとか僕も浴衣に着替え、手を引かれて部屋に戻ると、仲居さんが敷いておいてくれたのだろう布団に問答無用で寝かされる。ぱたぱたと、渚の右手が僕の顔を仰ぐ。心持ち風が起こり、僕は安心して目を閉じる。
「明日、帰ろう」
 ぽつりと呟くように渚が言った。目を開けると、こちらを見詰める心配そうな顔があった。体が辛いのは僕なのに彼の方が辛そうな顔をしているから、思わず手を伸ばした。その手を握った彼に言う。
「大丈夫だよ」
「二度も過呼吸になったくせに」
「のぼせただけだ」
「……キス要る?」
 もしかしたら効くかもしれなかったので、僕は黙って目を閉じた。





 翌朝、僕達はミサトさんの声で起こされた。敷いてある二つの布団をくっつけて、大きな一つの布団にした上で重なり合って眠る僕達を彼女がどう思ったか知らないが、それに何かを感じる余裕もなかったのではないかというほどに彼女は大変に怒っていて、僕達はそれぞれ頭に一発ずつ拳骨を頂戴した。畳に正座をさせられながら、隣に座る渚が小声でお揃いだねと言うのをミサトさんはしっかりと聞いていて、彼だけが余分に一つたんこぶを増やした。
 行きは電車で一時間、帰りはミサトさんの車で二十分。速度規制を完全に無視した荒い運転をしながら怒り続けるミサトさんの後ろで、僕達は並んで神妙にしていた。正確には僕は真面目な顔をしている渚の頭にできたたんこぶを思い出して笑ってしまいそうになるのを必死に堪えていて、渚はそんな僕の脇腹を運転席から見えないところで小突いてきていたのだけれど。アンタたちちゃんと聞いてんの!? と半オクターブ高い声で怒鳴られて、僕達は声を揃えてはいと返した。
 ミサトさんの家より先にネルフに着いたので、渚が先に降ろされた。ネルフの入り口に立っているリツコさんの存在が、事の重大さを物語っていた。ミサトさんが後部座席の扉を開く。その瞬間だけ二人きりになった車内で、渚は一瞬だけ体を寄せた。
「付き合ってくれて、ありがと」
 それから車の外に体を滑らせながら、ぼそりと小さな声で「星が綺麗だったのに」と言った。それは僕に届かせるつもりのなかっただろうほどの小声だったけれど、滅多に聞かない彼の感謝の言葉より、僕には何倍も貴いものに感じられた。人類の未来と、等しい価値を持つほどに。
「渚」
 気がつくと彼の名を呼んでいた。振り向いた彼に、何と言おうか迷い、僕は結局、また明日と言った。
「うん、また明日」
 ばいばい、と彼は笑って手を振った。
 こうして、僕達の短い逃避行は幕を下ろしたのだった。





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2012.12.18.
今度は貞カヲシンでした。
世界の果てで二人きり。