しばらく前から家に猫が居着いている。冬の始まった頃からだから、もう二た月ばかりになる。
 スーパーで鍋の材料を買い込んで、帰路を急ぐ。両手の重みはそれが二人分であるからで、確かめたわけではないけれど、猫がいることは既に生活の前提になっていた。こんなにたくさん買ったのだ、いてもらわなければむしろ困ると言うものだ。雪を踏む足に買い物袋の重みが加わり、歩きにくいったらない。迎えに来るくらいの甲斐性があればな、と考えて、ないから猫と言うのだろう、と思う。
 玄関の戸を開けると、果たして猫の声がする。
「先輩、おかえりなさい」
「ただいま」
 猫は甘ったれた声で先輩と鳴く。最初にそう呼ぶように定めたのは自分だが、もう呼ぶなと言って聞かせて、それでも呼んでくるのだから鳴き声と言う他ない。この家の外で会うときはきちんと人間の顔をして深緑の詰襟に相応しく振る舞っている猫なので、家の中では大目に見ようと暗黙のうちに合意した。合意を得ずとも呼んでくるから鳴き声なのだが。とにかくこの家の中では自分は猫の先輩で、猫は自分の後輩ということになっている。
「先輩、今日のごはんなに?」
「鍋だ鍋。こう寒くちゃな」
「美味しいから好きだよ、僕」
 知ってる。
 猫はある日ふらりとやって来て、それからしばらく来なかった。その次にまたやって来て、やはりしばらく来なかった。来ない間隔がだんだん短くなっていき、気が付いたら毎日のようにいる。
 住んでいるわけではないのは、猫は夜にやってきて、朝になると消えているからだ。一人で支度し出勤すると、勤務室でしゅんしゅんとやかんが湯気を吹いており、続々と出勤してきた同僚達にありがとうと言われるのを、猫の仕業だと訂正することも少なくない。もちろん猫だなんて呼びはしないが。
 最近上官早いよなあ、と白新が言い、俺らと違って始発から動けるからだろと羽越が言う。彼らには毎晩猫が来ることは言っていないし、おそらくは猫も自ら言ってはいない。一人で悩み、来るなと言うか、住めばと言うか。前者を選ぶべきなのはもちろん自分でわかっているのだが、一番始め、最初も最初、こいつにも落ち込むことくらいあるだろうと甘い顔をしてやったのが間違いだった。今更自分の部屋に帰れとは、なんとなく言い出せない。
 人の頭を悩ませておきながら、猫は能天気な顔で鍋から立ち昇る湯気に鼻を近付け、おいしそうと顔をほころばせている。
「ほんと締まりないな。もっとしゃんとしろ」
「外ではちゃんとしてるじゃない」
 不満気に唇を尖らせる、その声が甘いのには気付かないふりをずっとしている。足長いんだよと我ながら理不尽な暴言を吐いてこたつに伸ばした足を正座させ、隣の辺に座って手を合わす。
「いただきます」
「いただきます」
 鍋をつまみに酒を呑み、酒を呑むためにつまみを食べる。そうして夜は更け深夜を回り、気付けば猫の顔が近い。
「せんぱい」息が首筋にかかるのは、後ろから抱かれているからだ。弛緩した猫の手足の筋肉が、自分の体に重たく絡みついているのを払えない。最初は猫をベッドに寝かせ、自分だけこたつで寝ていたのだが、いつの間にか猫もこたつで寝るようになっていた。ただでさえ狭いこたつの一辺に流れるように入ってきた猫に、風邪を引くからベッドに行けと言ってはみても、先輩があたたかいから平気と返されたりもする。湯たんぽみたいなものらしいのは、互いに同じ。猫のあたたかい体温に、抗いがたい眠気が押し寄せる。耳の後ろで猫の唇が動き、熱い息で囁く。「せんぱい」
 それに続く言葉を、未だ聞いたことがない。起きると猫はいなくなっていて、その体の代わりに毛布が自分を温めている。


「育て方を間違ったかな」
 溜息と共に呟くと、信越が振り返る。「いまさら」からかうようなことを言いながら目は優しい。成人男性の体躯をしている自分も猫も彼の目を輝かせることはないのだが、それでも自分は本線の名を負う彼に守られたこともあり、猫は孫とも言える年の差がある。見守るような彼の目に甘えたくなるときもあり、漏らした言葉の裏まで言わず、彼の言葉を聞いている。
「今更かな」
「悪い意味じゃなくてさ。上越上官は良くやってると思うけどな」
「そうか?」
 怪訝な顔をしてしまうのは、新潟支社に居合わせた在来線とじゃれあった挙句、乗務の時間を思い出して慌てて去っていくのを見たばかりだからだ。北陸新幹線の開業に向け、弱音を吐くことも増えた。彼がここで上官として尊敬を受けているからこそ、弱い部分を見せることができるのはわかっている。けれど。
 不満そうに眉根を寄せる自分に、信越はやはり笑う。話していない足跡も、行く末も全てわかっているかのような微笑み方で、でもさ、と言う。
「上越上官があんな風にはしゃぐのはおまえがいるときだけだし、おまえだって上官がいないとき、俺らに怒ったりしないよ」
 俺も育て方を間違えたかな、と信越が言うので、おまえに育てられたわけじゃない、と返す。そういうことだよ、と奴は笑う。


 音を消したテレビを見ながら酒を缶から呷っていると、寝ないの、と猫が言う。長い腕が伸びてきて、細い指が後ろ髪に触れるのがくすぐったい。振りほどくついでに睨もうとして振り向けば、自分より不機嫌な顔をした猫がいる。狭いシングルベッドをさらに半分以上空け、壁に背中をつけて横になっているのが窮屈そうだ。空けたもう半分に一緒に寝よう、と誘うのが彼の言葉であり、触れてくる指先だった。
「……なんだよ」
「べつに」
と言いながら、目が詰る。ひげもしっぽもないくせに声音と視線が雄弁なのがこの猫とは言え、喜怒哀楽以上のことはわからない。言葉を引きずり出したいのはこっちもそうだ。睨み合っていると根負けしたのはもちろん猫で、だってさ、と唇を尖らせる。
「寒いじゃない」
「暑がりのくせに」
「夏はね。フェーンがあるから」
 一年中すぐ脱ぐくせに、よく言う。笑っていると、笑わないでよ、と猫が怒った。その声が真剣味を含んでいたので驚いて見直すと、なんだか泣きそうな顔でいる。
 酒を置いて立ち上がり、傍らのベッドに座り直した。缶も盃も持たずにいると、手持ち無沙汰で仕方ない。猫が自分にそうしたように髪を撫でるべきか迷い、結局は布団に置いた。もしかしたら重ねてくるかと思っていたが、猫は行儀よく、胸の上で手を揃えている。
 聞いてよ、と切迫した声が言う。
「春になったら、もう来ないね」
 上野にはもう春が来ており、長いトンネルを抜けてそれを新潟に連れてくるのが、上越という名の新幹線だ。在来線もだんだんと雪害で止まらされることが減る日々で、早く春が来ないかねと同僚と語り合いながら、春が来たら猫はどうするのだろう、と頭の片隅で思ってはいた。そうか。春になったら来ないのか。
 言ったきり緊張した面持ちの猫に見詰められ、こちらの心臓も僅かに早い。視線を逸らす先がないものだから、切れ長の彼の目尻や、上気した頬、形の良い耳のあたりを彷徨わせていると、パジャマ代わりのスウェットの袖が引かれ、つい目が合った。「せんぱい」と、呼ばれたのは幻聴かもしれない。なにしろこの冬だけで、何回呼ばれたことだろう。糖分を含んだ声はその分耳の深くに沈み、自力ではもう掻き出せない。これが雪なら、春になれば融けるのに。
 袖を引く力は弱く、なぜなら長い指のほんの爪先が、ひっかけるようにつまんでいるだけだった。そんな力で注意を引いて視線を合わせ、猫は何事か言おうと口を開き、閉じ、また開いたが、やはり閉じた。
「…………先輩、おやす」
「おまえなあ」
 彼がかぶっている毛布をまくり上げ、無理矢理に同衾する。「えっ、あの、ちょっと」「うるさい」宿舎のベッドは狭くって、新潟の冬は寒い。詰めろと言うにももう充分に詰めているのは知っているから、何も言わず猫の方に身を寄せる。スウェットの生地が擦れ合い、顔が近いから、見てやらない。「おい」「はい」「寒いんだよ」ゆっくりとためらいがちに回された腕に、初めて正面から抱きしめられた。
「……あの、先輩?」
「なんだよ。寒いんだろ」
 先に寒さのせいにしたのは猫なので、反論は認めない。
 猫の体に手を回す。なにしろ猫は臆病で甲斐性なしで、眠った相手を置いて出て行くためにいつも後ろから抱きしめて自分は抱きしめさせないものだから、それは初めての感覚だった。かつて先輩と呼ばせていた頃は細すぎて心配だった肩は相応に幅広になっていたし、背中は厚みがあり、布地越しではあったけれどてのひらに筋肉を感じた。こんな男になっていたのかと思い、確かにこれは自分が育てたわけじゃないな、と苦笑する。走ってきた年月が、その責任の重みが彼を作っているのだし、先輩だから抱きしめるわけでも、後輩だから振りほどけないわけでもないのは、よくよく承知のことだった。
「うん」
 猫は頷き、抱きしめていたてのひらで、髪や背中を撫でた。「寒いから、一緒に寝て」
 翌朝起きてみると、一晩中抱きすくめられた体はこわばってかすかに痛い。毛布と体温だけであたためられた体はこたつで寝るより適度にあたたまり、これなら風邪を引く心配はなさそうだから、もっと早くにこうするべきだったのだ。薄いカーテンを透かして入る光の加減を見るに、そろそろ仕度しなければ遅刻する。一緒に出勤するような顛末は、きっと信越の思い描いたものと大差がない。ということは彼に限らずほとんど自明の顛末で、共に過ごした数十年がこの朝を指し示し、一冬かけて開花した。そういう春であるのだと思う。
 おはよう、とかけられた声に顔を上げる。猫は――もういいか、かつては後輩であり今は上官である上越新幹線という名の彼は、先輩である自分を、上越線を腕の中に抱きしめて、とろけるような笑顔で言った。
「先輩、だいすき」
「遅いんだよ馬鹿」





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2015.01.03.
上越幹×在すごく好きです。幹×在です(大事なことなのでry)
W上越に絡む信越が好きです。