短編の原稿を仕上げた翌日、私は久々にメルカトル探偵事務所に訪れた。と言っても一週間ぶりくらいであろうか。普段は三、四日程の間隔で呼び出されたり立ち寄ったりしているので、私にしては久しぶりなのだ。君みたいなつまらない奴でもいないよりはマシだと憎まれ口を叩く彼は退屈が世界一嫌いだから、さぞ機嫌も悪かろうと思って私は彼の好む銘柄のコーヒーと有名店のケーキを買って来ている。
「あら、美袋さん。お久しぶりです」
ドアを開けるとすぐにメルの秘書である昭子嬢が声をかけてくれる。いつ見ても麗しい笑顔で、この事務所で唯一の癒しである。依頼人の場合にはきっと澄ました顔で応対するのだろうと思うと、身内意識を感じて私も面映ゆい気持ちになる。
「これ、御土産です」
「まあ、おいしそうなケーキですね! ありがとうございます、先生も喜びますわ」
だと良いのだが。彼女のこの様子を見ると、メルもそう機嫌が悪いわけではないのだろう。水を向けると、昭子嬢は言い辛そうに、
「つい先程からお客様がいらしてるんです。申し訳ないのですけれども、しばらくこちらでお待ち頂いてもよろしいでしょうか?」
事務所に入ってすぐのここは、歯医者などの待合室のようにソファがあり、照明も明るく、静かにクラシックが聞こえて非常に快適である。私は快諾し、ソファに腰を下ろした。探偵事務所で客と言えば依頼人だから、十分二十分で済む話ではあるまい。昭子嬢はしばらくして私が持参したケーキとコーヒーを運んできた。私は見たことがないが、どこかにキッチンのような場所があるのだろう。
「ありがとう」
礼を言ってコーヒーに口づける。美味い。ブレンドの妙もあるが、メルが鍛えているだけあって彼女のコーヒーは絶品なのだ。
失礼しますと断って、昭子嬢も私の斜め右に腰掛ける。メルが自称日本一の探偵だとは言え、私立探偵事務所などそう引っ切り無しに客が来ると言うものではない。彼女も休憩ということらしい。一日中、一人で座っていては退屈してしまうだろう。あるいはメルと話しているのかもしれないが。何を話すのだろう、この二人。思い切って訊いてみることにした。
「昭子さんは、メルと雑談したりすることってあるんですか?」
「それはもちろん。先生も私も一日中この事務所にいますから」
「何を話すんですか?」
メルのことだから、私をこきおろして愉しんでいるに違いない。私が険しい表情をしているのを見て、昭子嬢は微笑む。
「先生は美袋さんのこと、そんなに悪くおっしゃっていませんよ」
「どうですかね。あいつは僕のいる前で僕の悪口言うような奴ですよ」
「いえ、先生は少々お口が悪いだけですよ」
「……」
そう言われてしまってはなんにも言えない。しかし昭子嬢はメルを尊敬してこんなに庇うのだろうか。私には理解しかねるし、彼女の将来が心配だ。
「私、先生は美袋さんのこと、親友って思っていらっしゃると思いますよ」
「……!?」
驚き過ぎて言葉にならないとはこのことだった。メルが? 私のことを? 親友? ありえないありえない。私はきっぱりと彼女に告げる。
「ありえないですよ」
「そうですか? じゃあ美袋さんには親友って呼べる方、いらっしゃいます?」
「はあ?」
親友。その定義から考えよう、と定石とも言える逃げ道も一瞬考えに浮かんだが、彼女相手ではあまりに不誠実である。すると次に見慣れたタキシードが脳裏に浮かんだ。慣れた手付きでシルクハットをくるくると回し、呵々と笑いながら。その声さえ聞こえてきそうになって、私は慌てて打ち消した。
「―――ええ、いますとも」
「先生でしょう?」
「違います!」
私は咄嗟に学生時代の友人を何人か挙げた。あまりの剣幕に、昭子嬢はきょとんとしている。私も自分で何を言っているのかわからなくなってきた。そろそろ誰かに止めて欲しい。誰かって誰だ。
「……なんだい美袋くん、来てたのか。うるさいよ」
タイミング良く言いながら、応接室からメルが顔を出した。
「メル!」
「だからうるさいって。依頼人も気が散るだろう」
メルは言うが、完全防音の応接室で私の声が聞こえる筈がない。案の定、メルは昭子嬢を呼んでコーヒーのお代わりを頼んだ。応接室の中からはインターホンで連絡が取れる筈だが、カウンターにいなかったので聞こえなかったのに違いない。昭子嬢は恐縮してキッチンへと急いだ。メルは大して怒るわけでもなく私に話しかける。
「一週間も顔を出さないで、何の用だい」
「随分だな。昨日短編を書きあげたからやっと来られたんだよ。お土産に君の好きなコーヒーとケーキを持ってきたから後で食べてくれ」
「なんだ、君は……いや、君達はもう食べてしまったのか。ふん。じゃあ後で頂くとするよ」
不満そうな顔をしている。確かに、メルに持ってきたお土産を先に食べてしまったのはまずかったかもしれない。とは言え後の祭りだから許してもらう他ない。
「なあメル、まだかかるのか」
「なに、あと五分もすれば気が済むだろうよ」
どうせこれから依頼人に早く帰るようにプレッシャーをかけるつもりなのに違いない。昭子嬢が戻ってくるのを待たず、彼は応接室に引っ込んだ。
ややあって、昭子嬢がコーヒーを運び、待合室の私の元へ戻って来た。
「すいません、私の相手をしてもらったばかりに……」
「いえ、大丈夫です」
昭子嬢が微笑む。確かに、メルは私と違い昭子嬢には甘いのではないかと思われる節がある。事務所を開いてそろそろ五年。雇用関係ながらも、毎日同じ空間で過ごしていれば半ば家族のようなものだろう。
しかし依頼人が応接室から出てきたときに、彼女が私と談笑していてはさすがにまずかろう。私は彼女を促してカウンターへと向かわせる。カウンターとソファではやや離れるが、会話は充分に出来る距離である。
「そういえばさっきの質問、先生にもしたんですよ」
「さっきの質問?」
「親友はいますか、っていう」
「ああ」
メルに親友。ちょっと思い当たらない。
「私はてっきり美袋さんとお答えになると思っていたんですけれど……」
私が顔を顰めたのも気に留めず、先生には言わないで下さいね、と昭子嬢は悪戯の計画をするように声をひそめた。
「先生ったら、『この私には親友なんて馴れ合いの関係は必要ないよ』って言うんです」
あいつの言いそうなことだ。わたしは半ば諦めたような、呆れたような気持ちで天井を見上げた。
「でもきっと美袋さんのことは特に大切なご友人と思っていらっしゃいますわ」
彼女なりの思いやりなのだろう。メルに親友などと思われても私としては気持ち悪いような、何かとんでもない見返りを求められるようで怖ろしいような気がするのだが、ありがとうと言っておく。その時カウンターの中から微かに電子音がして、
「あっ、先生。はい、わかりました」
依頼人のお帰りらしい。昭子嬢が目顔で私に知らせるのと同時に、応接室の扉が開き、三十代後半と見られる男性が深く頭を下げる。メルがそれに対して鷹揚に応じ、昭子嬢がいくつかの事務的な話をした後で、依頼人は帰って行った。
「で、どうだったんだメル」
「どうって何がだい」
依頼人と入れ違いに私が応接室に通される。こちらの照明は温かみを帯び、落ち着く空間に演出されている。
「今の依頼だよ。あれだけ依頼人が頭を下げていたんだから、引き受けたんだろう。君の食指が動くような面白い事件なのかい」
「まあそうだね。来週あたり出かけるよ。君も来るだろう」
予想された展開だったので私はすぐに頷く。丁度締め切り明けで助かった。そこへ昭子嬢がケーキを一つとコーヒーを二つ持って入ってくる。
「美袋さんがお土産に持ってきて下さったんですよ、先生」
「うん。君にしては気が利くじゃないか美袋君」
「やかましいよ。ついでに言うとコーヒーも僕の土産だからな」
それはそれは、とメルは大上段に構えてコーヒーを飲む。眉がぴくりと動いたが、追加攻撃がないところを見ると気に入ったのだろう。当然だ。それは大学時代にメルが行きつけていたコーヒーショップの特製ブレンドコーヒーなのだ。メルにもそれはわかっただろう。私は何も言わずにコーヒーに飲み、昭子嬢は「ええ、とても美味しいコーヒーでしたわ」と微笑んだ。締め切り明けに相応しい、穏やかな午後だった。
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2011.03.18.(2011.11.04.rewrite)
昭子嬢が「美袋さんのことは特に〜」って言いだした辺りで
メルは嫌な感じがしてインターホン押したんだと思います。
昭子さんは天然で和みます。