『氷山の一角』のユニフォーム交換シーン妄想補完。



 ●


「さあ、これを着たまえ美袋くん」
とメルが渡してくるのは、今彼が着ているのと同じタキシード一揃え、つまり銘探偵のユニフォームである。内心かなりの乗り気で彼の誘いを引き受けたものの、これを実際に着るとなると別の勇気を要する。何しろタキシードを着て浮かない場面などフォーマルなパーティー会場くらいしか思いつかないし、そんなところでさえタキシードなんて着て行ったことはない。躊躇を見抜いたのか、メルがにやにやと笑いかける。
「どうしたんだい美袋君。このユニフォームが不満かい」
「まあね。君だってユニフォームを変えようかって悩んでいたことがあったじゃないか」
「まだ残暑が厳しいからね、この時期は暑いぜ」
 頑張れよ、と他人事のメル。春夏秋冬を問わずタキシードを着こなすメルは、どんなに暑くても汗をかかないし、寒くても風邪一つひかない。そういえば以前それをからかって「馬鹿は風邪をひかないって言うからな」と言ったらこてんぱんに遣り込められたことがあったな……苦い回想をしてしまった。
 とにかく一度引き受けてしまったものは仕方ない。なにしろプライドの高いメルカトル鮎の鼻を明かせる千載一遇のチャンスなのだ。ユニフォームごときで否やはない。
「じゃあ、着替えさせてもらうよ」
「ああ」
「……」
 メルが部屋を出ていく気配はない。
「……ここで?」
「君の裸は見慣れているよ」
 誰かに聞かれたらとんでもないことになる台詞を彼は真顔で言う。しかもこの台詞は誤解と思われる方こそが正解だという罠なのだ。
「……」
 脱ぐのと着替えるのでは少し違うと思うのだが。せめてもの抵抗としてメルに背中を向けて着替えを始める。
 まずサマージャケットを脱ぐと、後ろからメルの手がさっと伸びてきてそれを持っていく。
「ああ、ありがとう」
「いえいえ、メルカトル先生」
 こそばゆい。シャツを脱ぐとメルはそれも持っていく。面倒なので後ろを振り向いて確認はしないが、皺にならないように畳んだりしてくれているのだろう。彼は一面ではとても几帳面だ。
 下も脱いで、タキシードのスラックスに足を通す。メルのほうが若干身長が高いが、特に気にする必要はなさそうだ。次いでシャツ、タキシードと着ていく。タキシードに腕を通すときに少しだけ引っかかったが、またもやメルの手が伸びてさっと直してくれる。
「ありがとうメル―――
 言いながら振り返ると、メルが丁度私のシャツを着るところだった。当然のように、ボトムスも私のチノパンに履き替えている。
「君、私が脱いだものをそのまま着たのか」
「仕方ないだろう。この事務所にはこういう服を置いていないし、取ってこさせるほど時間の余裕はないしね」
 しれっとした顔で言い、私のサマージャケットを羽織る。メルの私服を見る機会は数回しかなかったが、はっきり言ってものすごい違和感である。本来ならばタキシードにこそ違和感を覚えるべきなのだが、彼のタキシード姿を見ても何とも思わなくなっている自分に気付く。
「気になるかい?」
「あ、いや、僕は別に。君こそそういうのは嫌がると思っていたな。その……潔癖症みたいなところがあるだろ、君」
「手袋は現場検証のためにしているだけだよ。学生時代にした旅行では、みんなで民宿で雑魚寝したりしたじゃないか」
 大黒らと一緒に旅行に行った時のことだ。確かに男五、六人で一つの部屋に泊まったが、その時もメルは一人で一つの布団を占領していた。雑魚寝とは言えないだろうが、まあここでとやかく言っても仕方ない。長い付き合いでも新たな発見というのはあるものだ。
「では参りましょうか、メルカトル先生」
 メルがにこりと手を差し出す。どことなく凶悪なその笑みに、彼が怒っていたことを思い出して、私は気を引き締めた。










-----------------------------------------------------------------
2011.03.18.(2011.11.04rewrite)
美袋君はメルの制服スペアで、え、メルは?
っていう衝撃的シーンの行間を読みました。