めそめそめそ、と閻魔は泣いていた。顎から額までべったりと机に押し付けているせいで、涙が表面に広がっていく。勤務時間はとうに終了しているため、鬼男の姿はない。だから閻魔は声を出して嘆いた。
「二月十四日が……終わった……」





 そもそもバレンタインデーなるものは冥界の文化ではない。確かにそう。
 冥府を統べる王が浮ついた態度では死者に示しがつかない。仰る通り。
 例年云われ続けた言葉から教訓を得て、今年は何も! そう何も、閻魔は二月十四日がいかに特別な日かということに触れなかった。わざとらしく日めくりカレンダーを置いてみたり、「今日何の日だか知ってる?」と秘書に聞いたりなんてしなかった。その結果がこれだ。チョコは一個もなし。閻魔に宛てられたものは勿論、冥府の中で働く者同士でもやりとりは一切、なし。浮かれた雰囲気を楽しむどころか、どんどん悪くなる自分の機嫌を悟られぬようにするのが精一杯。鬼男はいつもよりもそっけなく、仕事が終わるとすぐに自分の部屋に入ってしまった。悲しいし寂しいし、きっと自分が何かしたに違いないのだが、もう閻魔はそんなことを考えて余計に落ち込むのは嫌だったから、「おつかれさま」と云うだけだった。
 バレンタインだとかクリスマスだとか、そういう華やかな行事は大好き。閻魔にとってそれは、下界の宗教だとか人間の恋愛感情だとかは関係なくて、三途の川を渡ってやってくる死者を裁く毎日に、少しのアクセントをつけるもの、という認識だった。だから本当はどうしてもどうしてもやりたかった。出来れば冥府の年中行事の一つにしたかったし、長年の努力から、そうなっている手応えを感じていた。けれど今年わかったのは、自分が云い出さないと誰一人それをしようとはしない、ということ。やっぱり、冥界には下界の行事は合わないのだろうか。
 じんわり、と目頭が濡れる。
「もうやだ……素敵な恋がしたい……」
「誰とですか」
「……!」
 飛び起きて、衝撃で椅子が後ろに吹っ飛ぶ。気配を殺して部屋に入るくらいわけない優秀な閻魔大王の秘書である鬼男は、呆れたような怒ったような顔をして、椅子を戻し、机の正面に立つと、座って下さい、と云った。すとん、と閻魔は沈み込むように椅子に落ちた。
「……どうしたの……?」
「云っておきますけど、ちゃんとノックはしましたよ。返事がなかったので失礼しました」
「えっと……」
 混乱していて、言葉が思ったように出てこない。どうして、ここに戻ってきたの? こんな夜中に、仕事は終わっているのに?
「その箱は何?」
 鬼男が隠し気味に片手に持つそれを目聡く見付けて、閻魔は尋ねた。薄い直方体で、黒い紙と金色のリボンで包装されている。指摘されて鬼男は迷うように目を彷徨わせたが、
「大王」
 す、とそれを閻魔に差し出した。「チョコレートです」
 一瞬、閻魔の頭の中が真っ白になり、目の前の丁寧に包まれた箱がぐんと近づいたように感じられた。
「……バレンタインの?」
「他に何があるって云うんです」
「えっと」
 耳まで赤くなった鬼男が可愛い、と心の中で思って、包みを受け取った。
「……でも俺、何も云ってないのに……」
「だからですよ」
 はああぁぁ、と心の底から吐き出したような溜息をして、「やっぱり気付いてなかったか、このイカ」と何やら失礼なことを呟いた。
「毎年毎年うんざりするほどバレンタインだなんだとうるさいあんたが、今年に限って何も仕掛けてこないから、冥府のみんな怖くって何も出来なかったんですよ。あんた今日すっごい不機嫌だったし」
「ば、ばれてる!」
「ばればれですよ、ったく」
 はああぁぁ、と再び溜息。
「どうせ本当は騒ぎたいのを、ちょっとは学習したつもりで我慢したんでしょう」
「……逆効果だったってことだ」
 ここまで云われて、閻魔にもようやくわかった。
「どうしようもないですね」
 相変わらず辛辣な秘書。でも彼は閻魔のためにチョコを用意して、わざわざ渡しに来てくれた。どうして? と、今日何度目かの疑問を口にした。鬼男は真っ直ぐ見詰める閻魔から目をそらして、顔を赤くして、
「……あんたの秘書だからでしょう」
「……」
「……なんか云って下さいよ」
「鬼男くん」
「はい?」
 くだらないこと云ったらぶっ殺すぞこのイカ、というイライラした気持ちを隠すことなく、鬼男が睨んでくる。だけど耳まで真っ赤だから迫力はない。閻魔の顔にはまだ涙の跡が残っていたが、心臓はどきどきして、悪戯心が首をもたげた。
「らぶ!」
 一声叫んで、机を蹴って鬼男に飛びつく。驚いて見開かれた鬼男の眼に閻魔が映る。血の通わない閻魔の肌の色と違う、おいしそうなチョコレート色の肌の首にぎゅっと手を回す。反射神経の良い彼が爪で刺したり逃げたりしないということは、どうぞということだろう。閻魔は自分に都合のいい解釈をして、先にこっちがいいな、と嘯いて、鬼男の首に舌を這わせた。










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2010.02.11.
閻鬼です。
鬼閻じゃないよ!
閻魔は多面性があって見てて飽きない人だといい。
鬼男くんはそこがどうしようもなく好きだといい。


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