始まりは高崎線だった。
 帰宅ラッシュを過ぎ、駅も路線全体も落ち着いた頃だった。駅舎は夜の暗さに煌々と横たわり、ホームの隅ではいつもの通り、列車を待つ乗客に混じって路線達が冗談を言い合っていた。
 誰かが押したわけではないというから、彼自身がバランスを崩したのだろう。傾いた高崎線の体が白線を越え、線路に落ちてゆく。スローモーションのようにはっきりと見えたらしいのに、誰も止められなかった。
 折しもそのとき、ごうと眩い光を射して、列車がホームに到着するところだった。
 重さ何十トンにも及ぶ鉄の塊が、歪みなく敷かれたレールを駆ける。咄嗟に避けられる距離でも、速度でもなかった。
 実際、死んだ、と高崎は思ったそうだ。
 しかし列車が去った後の枕木に、彼は無傷で呆然と体を起こした。
 酷いのは東北本線で、高崎線が落ちた瞬間に名前を呼んで伸ばした指先は僅かに届かず、爪先を掠めて空を掴み、彼の目前で高崎線は線路に消えたものだから、高崎が手を借りてホームに上がると、彼は焦点の合わない瞳でたかさきと呼び、袖を掴んだきり離れなかった。半身を包むように後ろから高崎に寄り添ったまま、肩口に顔を押し付けて一言も口を利かず、視線も当然合わせない。高崎も高崎で、困っているような顔をしながらも、無理に離すでもなく東北本線に寄り添っている。仕方がないので、今は詰め所のソファに二人まとめて座らせている。
「なんだ、あれ。めっずらし、っていうか、初めて見るけど」
 業務を終えてやって来た常磐線が、茶化すのも忘れて心底不気味そうに小声で聞いてくるので、事の仔細を話して聞かせた。
「はーん」と聞き終わった常磐線はいつもの調子を取り戻し、訳知り顔に頷く。「路線を電車で轢いても死なないってか。道理だな」
 そんなものだろうか、と京浜東北線は相槌を打たず、横で聞いていた山手線は、「おっかしいねー」と人形に高い声で喋らせた。





 深夜――最終列車の走る時分に宿舎は静まり返り、時計の秒針が進む音が、いずこにも等しく響いていた。東北本線が共に休む高崎線の部屋にも、そのせいで空いた東北本線の部屋にも。常磐線が夜更かしをして遊ぶ部屋にも。東海道本線が日誌をしたためている隣の部屋にも。
 体に衝撃を感じ、京浜東北線は飛び跳ねて目を覚ました。
 荒い息を抑えながら触れた額に、冷たい汗をかいている。暗い部屋で枕元を探り、眼鏡をつけると同時に読書灯を点した。今朝合わせたばかりの時計では京浜東北線の最終列車までまだ少しあったが、身体に血も付いていなければ眼鏡も歪んでおらず、どうやら事故ではないらしい。ようやく鼓動の速さが戻ってきていたが、薄気味の悪い寒気は、まだ体から離れなかった。
 布団を出て、隣の部屋の扉を叩く。部屋の中からかすかな音が聞こえ、しばらくして本線が顔を出した。寝間着の京浜東北と異なり、彼はまだ制服を着ている。高崎線の事故が起きたのが遅い時間であったため、まだ日誌に書いていたのだろう。
「京浜東北か。どうした」
「夜遅くに悪いね、東海道。変な感じがして起きちゃったんだけど、君の線路じゃない?」
「いや、特に何も感じないが」
 東海道本線は首を傾げた。「そもそも俺の区間では、おまえ専用の線路があるだろ」
「まあ、そうなんだけど。東北本線にも聞いてみるかな……」
「今晩はやめておけ。山手じゃないのか?」
「え?」
 京浜東北線は東海道本線と東北本線の支線だったが、一部の区間で山手線と線路を共有している。そうかも、と頷いて踵を返す。山手線ならまだ起きているかもしれない。
「おやすみ」
「おやすみ」
 扉を閉める直前、東海道が小さく欠伸をするのが聞こえた。彼の癖のある文字は、今夜の出来事をどのように記すのだろうか。人の形をした路線。列車に轢かれても死なない自分達。この国の鉄道史の全てを見てきた東海道本線も、高崎の報告に驚きを隠さなかった。列車に轢かれるような間抜けな路線は、今まで一人もいなかったのだろう。
「山手、起きてる?」
 自分の部屋を通り過ぎ、もう一方の隣の部屋の扉を叩いた。返事はなかったが、寡黙な山手線を相手に、それは珍しいことではなかった。入るよと言いながらノブを回すと果たして扉はするりと開き、覗いた室内に部屋の主の姿はない。目を凝らしたが、人形もなかった。扉を閉めて耳を澄ませるが、各自の部屋の外で、動く気配はなかった。
「あの人形遣い」
 眉を顰めて溜息を吐く。自分の部屋に戻り、手早く制服に着替えた。音を立てないように注意したつもりだったが、釦を留める音が硬く響いたのは苛立ちからだろう。北行の最終列車が出る時間だ。急がなければ。
 宿舎には東京駅が最も近く、京浜東北線北行は三番線に、南行は六番線に発着する。最終列車の近付く音に三番線の階段を駆け登ると、列車に乗るまでもなく、人形と共に佇む山手線を見付けた。――三番線は、彼の内回りのホームも兼ねている。
 ホームは最終列車を待つ人々で混み合っていたが、彼らを乗せて列車が去ると、後には路線が二人きり取り残されていた。
 吹きさらしのホームに、風が冷たい。
「なにしてるの、山手。君の最終は、もうここを過ぎているじゃない」
「……京浜東北」
 山手線は相変わらず表情の変化に乏しい顔で、こちらを振り返った。左手の人形の顔もこちらに向け、どこから出しているのかわからない高い声で、やあこんばんはと言う。
「せめて少しは表情を明るくして言って欲しいね」
 肩をすくめ、彼に近付く。「さっき何かなかったかい? 起こされたんだけど」
「飛び降りた」
「へ?」
 人形の口を介さずに言う山手線は、線路を見詰めていた。冷たいレールが闇の中から粛々と伸びてきて、ホームから漏れる光に煌々と照らされ、また闇の中へ消えていく。等間隔に並ぶ枕木を映す彼の瞳孔が、開く。
「山手!」
 京浜東北の声が、鋭く空を切り裂いて駅舎に響いた。余韻に、ぼんやりと山手線は視線を向ける。昼間はお喋りであった人形は彼の左腕に座り、今は命などないように、両腕をだらりと下ろしていた。線路を覆う暗闇とホームの明るさの対比は甚だしく、彼が急速に遠ざかる錯覚に、目眩を起こしかける。
「……なんだって?」
「飛び降りた」
 もう一度、同じ言葉を山手は繰り返した。「ここに、最終列車の前で」
 彼は前方へ手を伸ばし、下を指した。そこには闇が凝っていたが、目が慣れるのを待つ必要はなかった。暗闇でも自分の腕に触れることができるように、そこに何があるのかは自明だった。ここは駅だ。だから山手の指の先にはレールがあり、枕木がある。砂利があり、血溜まりはなかった。傷付いても、錆び付いてもおらず、明日も乗客を乗せて走ることのできる、二人の線路があった。
「……どうして?」
 声は意図した以上に穏やかだったが、山手線は腕を下げたきり、口を開く気配はなかった。夜行を除いた全ての列車は東京を過ぎ、駅はしんと静まり返っていた。距離が離れているせいで、互いの呼吸の音さえ聞こえないのだ。山手線は微動だにせず、左腕に載る人形と彼を分けるものは、線路に注がれる乾いた視線でしかなかった。
 足早に歩み寄り、山手の右腕を掴む。宿舎に戻る道へ引いた。強く。
「帰るよ。ったく、明日も早いっていうのに君のせいで歩いて帰らなきゃいけないんだから、ぼやぼやしないで」
 返事はなかったが抵抗もなく、山手は足を動かした。滞りなくついてくる歩みに力を緩めたものの、手は離さない。彼の制服に皺がつくかもしれないが、知ったことではなかった。
 街灯を頼りに帰る道の上に、月は見えない。強過ぎる人工の照明の、自然の闇と融け合うあわいを歩くのがちょうど良かった。
「じゃあね、おやすみ。二度とこんなことはしないでよ」
 言い捨てて部屋に入ろうとしたところに、京浜東北、と人形からではなく、彼の口から低い声が呼んだ。
「ん? なに?」
「……起こしてごめんねー」
 高い声は、人形から出ていた。「そういうのは自分で言うんだよ」苦笑いを浮かべ、もう一度、おやすみと言った。





 京浜東北線と同じく東海道本線と東北本線をまたぐ山手線は、しばらく前に環状線として完成した。誰とも直通せず、誰とも接続せず、彼は一人でぐるぐると、日本の首都を回り続ける。
 人形を伴うようになったのは、環状線が完成する直前のことだった。彼自身に似た人形をぎこちなく抱いて出勤してきた彼に、なにそれ、と唖然として聞いたことを覚えている。内回り、と彼がその頃まだ耳慣れていた、訥とした話し方で答えたので、そう、となんとかそれだけ言えたのだ。会話は終わり、以来彼は人形に喋らせるようになったので、彼本来の低い声は耳慣れなくなって久しい。昔は、と思い出すのも稀なことだ。――昔は、それほど無口な男ではなかった気がする。
 深夜に、京浜東北は目を覚ました。
 飛び起きることはもうない。ただ、必要なだけの休眠を得られなかった倦怠が身体を包み、瞼を持ち上げるのがひどく億劫だった。読書灯の弱い明かりの下、用意していたワイシャツに袖を通す。日毎繰り返す行為は指先に馴染んでおり、気怠さの中でさえ五分と掛からず身支度を調えると、冷たい廊下に足を滑らせて宿舎を出た。
 目指すのは、今夜も東京駅だった。
「どうして君は飽きもせず、飛び降りなんてするのかな」
 怒りと呆れを含む声に、線路からホームへと上がった山手線は鈍く視線を向けた。行儀良く脚を揃えて柱に座りかけさせていた人形を手にとり、体の前に抱く。抱きしめるでもなくそっと、彼自身を庇うような手付きであった。
 答えはない。彼の視線は京浜東北の足元に落ちていた。
「……帰るよ」
 靴音硬く踵を返すと、やがてもう一つ、鈍重な靴音が後に続いた。京浜東北は振り返らなかった。唇を引き結び、前だけを見るべく努めていた。
 線路に人が飛び降りたとき、路線達はその感覚を身体に得る。山手線が彼自身以外の線路で飛び降りていたならば、その線路を走る路線が、夜中に起こされていただろう――京浜東北のように。山手線には専用の線路があり、その周りにはいくつもの路線が走る。他の路線に気付かれない方法も、気付かれるのに選ぶ路線もいくつもあった。なのに毎夜起こされるのは、京浜東北、ただ一人なのだった。
 宿舎の前で振り返ると、街灯に照らされた山手の顔は青白く、まばたきの少ない一重瞼の奥で、瞳がこちらを見ているのがかろうじてわかった。
「もしまた、飛び降りたくなったら」
 京浜東北の声は、冷えた夜の底にしんと通った。
「僕を起こして。……君が飛び降りる衝撃で、起こされるのはもう御免だよ」
 山手は僅かに瞼を上げ驚きを表すと、こくりと、迷子のように従順に頷いた。





 以来夜毎、山手線の飛び降りるのを見ている。
 不思議なことに、彼を前に列車は止まらない。制服の黒が闇にも列車の鉄の色にも同化してしまうのか、運転士は止める素振りも見せないのだ。列車が過ぎ去った後の線路からおもむろに山手線が起き上がり、健常な腕の力でホームへ戻る。制服についた汚れを払い、人形を手に取るまでの一連の流れを、京浜東北はホームから眺めるのが常だった。死なないとわかっていてさえ、それは気持ちの良い光景ではなかった。
 どんな感じなの、と訊いたことがある。轢かれるっていうのは。
 山手線は言葉を探して視線を彷徨わせた。あるいは人形を探したのかもしれない。彼はホームに上がったばかりで、まだ人形を手にとってはいなかった。そして人形は京浜東北の後ろにあり、手に取ることを、人形の口を介して話すことを許すつもりはなかった。
 仕方なく、山手線は自分の口で答えた。
「……車輪が体に載った瞬間、全身が冷える。汽笛や、動輪の回る音がする筈なのに、何も聞こえなくなる。しばらくするとまた音が聞こえる。目を開けると、汽車が遠くに過ぎ去っている」
「それが気持ち良いって?」
 いや、と山手は否定を返し、そうだろうな、と京浜東北は思う。
 山手が飛び降りたのは、路線が轢かれても死なないということを、高崎が身を以て示した夜のことだった。どんな感じだったんだと東海道本線が聞くには聞いたが、高崎の少ない語彙では変な感じ、との答えがせいぜいで、あとは東北本線が腕を引いて言わせなかった。だから好奇心で飛び降りた、と言うには山手線の性格は引きこもりに過ぎたし、一度ならず二度三度と飛び降りる彼の表情は嬉々としているわけでも何かに取り憑かれているようでもなかった。毎夜山手線最終列車が東京駅を出発する瞬間に、彼はホームから足を離す。宙に浮いて、車輪に敷かれ、列車の後ろで起き上がる。感慨の浮かばぬ顔に、瞳だけが暗い。
 彼が求めているものがわかるような気がしたし、永遠にわからないような気もした。
 京浜東北が眺める前で、今夜もまた、山手は線路に身を投げる。





 最近眠れていないんじゃないか、とかけられた声が東海道本線のものであったので、京浜東北はペンの勢いを止め、きつい視線を向けた。
「そう見える?」
「見えるから聞いてる」
「気のせいだよ」
 再び目の前の書類に意識を集中し、余白を埋める作業に戻る。片付けねばならない書類が山積みなのに、時間が足りない。出来ていた筈のことが近頃出来ないのは、集中力が落ちて効率が悪くなっているからだ。しかし、それを彼に認めることは出来なかった。
 認めれば理由を言わねばならない。深夜に眠りを妨げられること、その相手が山手線であること。二人で連れ立ち東京駅まで赴いて、山手は列車に轢かれ、止めずにそれを見ていることを。
 東海道は二人共の本線であったが、それ以前からこの国を背負って走り、そしてまた走り続ける路線であった。二つの支線が口にするどんな理由も、彼は理解し得ないだろう。そしてうまく説明する自信も、京浜東北にはなかった。
 そうか、と東海道本線は訝しむこともなく頷く。
「無理はするなよ」
 京浜東北の肩を叩くと、部屋を出て行った。彼の手が触れた場所が制服の上からでもほのかにあたたかく、意識が逸れる。書類から顔を上げて本線の出て行った扉を見やり、京浜東北は、おやと首を傾げた。労いの言葉だなんて、細やかな気遣いに欠ける彼には珍しい。
 まさか、気が付いているのだろうか?
「まさかね」
 とん、と自分で肩を叩く。
 その夜も、寝室の扉は叩かれた。近頃ではもう寝間着に着替えることはやめ、すぐに外に出られる服のまま寝台に体を埋めている。いつノックされても良いようにという意識があるから眠りは浅く、疲れはとれない。明かりを点す必要もなく枕元の眼鏡を付けて扉を開けると、暗がりに山手線が立っている。
 夜目を合わせて頷くと、山手も僅かに頷き返した。
 最終列車二本前の京浜東北線は、定刻から少し遅れて東京駅へと走った。押し込められた乗客のうち人間でないのは自分達二人だけであり、他は列車に轢かれれば、あるいは脱線事故でも起きようものなら、全員が一蓮托生に死ぬだろう。混んだ車内で周りを囲む赤い血肉をぼんやりと想う京浜東北は、未だ山手の血を見たことがない。幾度列車が過ぎようと、彼の体は傷を負わずに起き上がる。それはおそらく、不死などというものではなかった。
 東京駅で降り、上野駅へ向かう列車と、改札を抜けて行く乗客を見送る。幾人もの足音が汽笛に紛れ、やがて夜に消えた。後には行く宛てのない路線が二人、しらしらと明るい駅に残っていた。
 山手は柱に人形を立てかけ、ホームの端へ立った。人形を冷たい床へと座らせる、丁寧に気遣うような手の動きが勘に触り、京浜東北は乱暴に腰を下ろした。
 人間を運ぶ路線。人間と同じかたちをした自分達。同じく人型をした人形を大切に扱えるのに、なぜ自分の体は粗雑に扱う。京浜東北の睨んだ先に、山手線は線路の来し方を見詰めている。暗闇の向こうから列車が前照灯を光らせて、自分を轢きに来るのを待っている。
 最終一本前の列車が来て、乗客を降ろし、新たに乗せて去っていった。目の前を人の足並みに覆われ、山手の姿が見えなくなる。過ぎ行く人の流れが絶えず、林のように視界を覆う足並みの先に目を凝らしたが、蒸気機関車を走らせていた頃からの制服は煤に汚れても良いように黒く、勤め人の多くと同じであったので、目に映る黒い布のうちどれが山手のものなのか判別することは難しかった。そこにはもう彼がいないのではないかとも思えた。山手、と小さく呼んだ声もまた、足音に阻まれてきっと彼には届かなかった。だから人の壁が途切れた先に見慣れた彼の顔が見えたとき、柄にもなくほっとしたのだ。
「……京浜東北」
 山手がこちらを見ていた。呼ばれた声に、安堵の吐息混じりに応える。
「なに、山手」
「ひどい顔だぞ」
 どっと疲れた。
 山手を見上げる首の角度が辛く、視線を落とし、首を振った。自分の黒い髪が顔の周りで風を切る。そういえば、随分伸びた気がする。いつから切っていなかっただろうか。
 今夜の最終列車はなかなか来ない。
 先刻以来会話もなく、他に誰もいない駅は静まり返っている。遠くで汽笛の鳴ったような気がしたが、おそらくは幻聴だろう。両隣の駅は確かに近くあったが、音の届くような距離ではない。隣駅よりも近い宿舎では皆が寝静まり、二人が部屋を抜け出していることすら知るはずがなかった。
 東海道本線。
 横須賀線。
 常磐線。
 中央本線。
 多くの路線の発着駅たるこの駅に、けれど、今は二人しかいない。
 最終列車が来る筈の時間は、既に過ぎていた。
「もういいじゃないか。帰ろうよ、山手」
 溜息と共に吐き出した言葉は駅舎に響き、吹きさらしのホームを夜の中へ抜けていった。「君は楽しいのかもしれないけれど、僕は全然楽しくないよ」
 線路を見詰めていた山手線は、ゆっくりと首だけで振り向いた。
「一緒に飛び降りてくれないのか? 京浜東北」
 張り上げた声ではなかったが、その低い声は京浜東北の頬を打った。
「これが東海道本線なら、おまえは体を張ってでも止めるのだろう」
「……そ」
 そんなことはない、と言おうとしたが、舌が動かなかった。動きを止めた京浜東北の目の前で、山手はホームを降りる。線路に満ちる暗闇に半分以上体を沈め、彼の昏い瞳がこちらを見た。手も差し伸べず、京浜東北を誘う。
 一緒に死んでくれないのか。
 人間ならばそう言った意味になるのだろう彼の言葉は、轢死という手段を持たない自分達にどんな意味を持つのか。
 床に投げ出していた脚を動かし、空を掻いて立ち上がった。体は重く、目だけが前のめりに山手を見ている。そこに東海道本線がいるのを想像しようとしたが、うまくいかない。線路の中で自分を待つのは、山手でしかありえなかった。彼でなければ、毎夜起きて飛び降りるのを眺めるなんて、京浜東北はしなかっただろう。これからしようとしていることも。
 山手がそうしたように線路へ降りると、背にしたホームの明かりは眼前に沈む暗闇を重く際立たせた。そこには枕木とレールだけがあり、東京駅三番線であることを忘れさせた。ここからどこにも行けないのにどこかへ連れて行かれるような、既にどこでもないどこかにいるような、酩酊にも似た浮遊感が体を包んだ。山手は線路に腰を下ろし、枕木と同じ向きでレールに横たわった。京浜東北もそれに倣った。
 枕木は固く、レールは冷たい。
 遠くから汽笛が聞こえる気がする。
 京浜東北は静かに目を閉じた。





  ◇





 その日、結局電車は来なかった。
 翌日出勤すると、どうやら高崎線宮原駅の信号故障の余波を受けたらしかった。いつもであれば小一時間説教したところを数言で終わらせたから高崎は呆気にとられていたが、そんな気力もない。なにしろ眠かったのだ。
 いつの間にか復活していた東北本線が素知らぬ顔で寝不足、と聞くので別にと答え、それより報告書が溜まっているようだけどと付け足してやる。乗務から戻ってきた東海道本線は慌ただしくまた飛び出て行って、そういえば近頃ずっとそんな調子であるので新しい路線でも出来るのかもしれないし、常磐線が猫のような欠伸と共に体を伸ばして我関せずを決め込んでいるのはいつものことなので気にしない。
 そして山手線はと言うと、今日も人形を伴って、環状線を廻っている。

 それ以来、山手線は飛び降りない。










 この春、東京駅は始発点でも終着点でもなく、全ての路線の通過駅の一つになる。東北本線こと宇都宮線、高崎線、それから常磐線が上野から延伸し、東海道本線が東京から上野へと延伸するのだ。これによって、長らく二人きりで上野と東京を繋いできた山手線と京浜東北線の混雑緩和が見込まれている。
 とは言え首都圏の交通網を一手に背負う山手には上野東京間だけ緩和されたところで詮無い話であるし、彼らの延伸に伴い仕事が増えた京浜東北には暫くはありがたいばかりではない。
「千代田ー!」
 ただでさえ人間も路線も多い東京駅に常磐線まで戻ってきて、最近はとみに賑やかだ。あまり他社に迷惑をかけるなと言っているのに彼は昔から聞く耳を持たないし、今だって東京くんだりまで引っ張ってきて「心中ごっこしようぜ!」なんて言っているので聞こえなかったことにした。
 ふあ、とあくびを漏らすと、隣で山手線の人形が喋り出す。
「眠いのー、京浜東北」
 頭に響く高い声に、眠いよとぶっきらぼうに返した。「なにしろ仕事が山積みで」
 ふうんと人形は首を傾げ、本体の方が口元に手をやり目を細めた。その瞳の表面は淡く潤んでおり、睫毛は数度のまばたきに薄く濡れる。その昔、自殺未遂ともつかないことを繰り返していた暗い瞳はいつだって乾いていたというのに不思議なことだ。もっともその頃から彼の目の下にはいつだって隈ができていて、だから寝不足じゃないのだなんて、改めて聞かれたのは京浜東北線だけだった。今は怒られるのが怖くって誰も聞いてくれない。山手線を除いて。
 全く眠くなさそうな声に合わせ、人形の口が器用に動く。「僕も眠くなっちゃったー」人形はやっぱり人形なので、いつまで経っても人真似がうまくならない。
「帰って昼寝してこよっかな」
 それにしたって一言多い。けたけたと笑う人形越しに山手を睨むと、うそうそ、と人形が慌てて付け足した。怒られるのが怖くて慌てるなんて、殊勝なことだ。君まで仕事増やさないでよね、と大きな溜息ひとつで許してやる。
 三番線、京浜東北線大宮行きが参ります。スピーカーからアナウンスが流れた。四番線、山手線内回りが参ります。ホームのもう片側のスピーカーも言った。随分前から山手線と京浜東北線のホームは分かれ、つまりは線路も別々で、そもそも進化した鉄道業界の設備の前では路線といえども飛び降りなんて出来やしない。先日大井町駅に導入されたホームドアに、良かったじゃないなんて人形は嬉々として嘯いたものだったが、ずっと以前からホームドアを整備されていた癖に他人事にも程がある。もう少し釘を刺しておこうと目を向ければ山手はやはり眠たげに目元を擦っており、百周年を迎えた京浜東北は歳月の厚みを思う。――僕達は、少しずつ変わっていく。
「じゃあ、山手。また明日」
「……また明日」
 今日も大勢の乗客を乗せ、空色と鶯色の車両は並んで走る。それぞれの制服と同じ色の電車に乗り込んだ二人はホームを挟み、閉まりゆくドア越しに敬礼を交わした。





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2015.02.24.
路線は電車に轢かれても死なないと知った山手が、
毎晩自分の線路で飛び降りるのに付き合う京浜東北の話でした。
このふたりの組み合わせはすっごくかわいくて好きですが、
すくなくともこの話はCPではないです。