見上げた夜道にさくらのつぼみがふくらみかけているのを見つけ、つい手を伸ばした。みずみずしい弾力が指先に返り、来たる春を想像して暦を開く。さくらが咲けば、ひとは観光に出かける。その行き帰りの道で自分に乗ってもらえるように、これからするべきことは山ほどあった。毎年のことなので慣れた作業を頭の中で順序良く整理して、それから、すこし浮かれた気分になっているのを自覚した。はるのうららのすみだがわ。さくらといえば日光は、伊勢崎線の橋からの眺めを思い出す。
「ただいま」
 車両点検が長引いて、いつもよりも遅くなってしまった。もう日付の変わるかどうかという頃なので、静かに戸を引いて呟く。挨拶はもう随分前から習慣になっている。すると同じく挨拶が習慣になっている人の声が、奥でおかえりと言うのが聞こえた。
「おかえり」
 居間のふすまを開くと、卓袱台の前に座る伊勢崎が見上げてきてもう一度言うので、自分ももう一度ただいまと、少しはっきりした声で返す。とっくにみんな寝ていることだと思って帰ってきたし、実際、家の中は静かで他に起きている人はいなさそうだったので、なぜ伊勢崎が起きているのか不思議だった。
 とりあえず中に入って、ふすまを閉める。外套を脱ぐと居間は肌寒く、暖房を切ってから時間が経っていることを教えた。
「おまえ、暖房つけるか厚着しろよ」
「すぐ寝るつもりだったんだよ」
 まるで言い訳みたいに口をとがらせて、伊勢崎は卓袱台の上のノートを指した。「日誌書いてたの」
 ふうん、と日光が外套を肩にかけたまま日誌を手に取って腰を下ろすと、伊勢崎は反対に立ち上がり、隣に続いている台所に向かった。行きしなに暖房のスイッチを入れる。
「日光、なんか食べる? 今日の夕食当番、鬼怒川だよ」
「食べてきたからいい」
 残念、と伊勢崎は歌うように言った。明日の朝に自分が食べるつもりなのかもしれない。
 日誌は確かに今日の分が書かれていて、しかし後半に進むに従って線が曲がっていくので、担当者がどんどん眠たくなっていくのがわかる。最後の一行なんかぐにゃぐにゃで、大師が書いた字より読めない。
「明日書きゃいいのに」
「……今日書いちゃいたかったんだよ」
 戻ってきた伊勢崎は、盆の上に茶碗を二つ載せている。「はい、お茶」
「白湯じゃないのか」
「頑張って帰ってきた人にさすがにそれはないかと思って」
 伊勢崎は日光に横顔を見せて座り、色の薄い茶をすすった。日光の前に置かれた茶のほうが、少し色が濃い。「……珍しく気が利く」
「失礼な」
 自分を待っていたのだろうか、と薄目で伊勢崎を盗み見る。日誌に文字ともつかないものを書き付けてまで起きる理由を用意して、今も目をこすってあくびを漏らしているこいつは。それはいかにもありそうな気がしたし、期待を持ちすぎだという気もした。あたたかい湯気がたちのぼる茶碗に口をつける。伊勢崎も同じようにし、満足気な息を漏らすのは同時だった。
 立ち上がって台所に入り、食器棚の一番奥に手を伸ばすと、そこに隠しておいた小さな包みを取って戻る。食べていいぞ、と伊勢崎の前に置いてやると、ねむたげだった彼の目が輝いた。
「なにこれ」
「チョコ」
「ちょこ?」
 先月の、というとようやく通じたらしく、伊勢崎は虚を突かれたように動きを止めたあと、しげしげと包みを見詰めた。今日は三月。先月は二月。日光が両手の紙袋いっぱいに戦利品を持ち帰ってくるのは、さくらが咲く前の年中行事だ。
「毒なら入ってないぞ」
「毒味したの」
「した」
「するなよ」
 手作りじゃないから危険性は低い、と言い張る日光に、毒味なら野田にやらせろと伊勢崎はまぜっかえす。このままいつまでも応酬が続きそうだったので、促すとようやく包みを解いた。途端に、深夜だから控えめではあったけれども、歓声があがる。
「うわ、なにこれ超綺麗じゃん。今年もらった中では一番なんじゃないの」
「ふうん」
「なんだよ興味なさそうな顔してさ。この色男め」
「いいから、食べろよ、伊勢崎」
「――本当にいいの?」
 チョコに夢中になってはしゃいでいたのに、急に不安そうな顔をするから笑ってしまう。「いいぜ」
 やった、と伊勢崎は子供みたいに喜んで一粒手にとってから、あれでも日光は、と視線を向けた。はやく食べないと体温で溶けてしまうのが気になって、とりあえず首を振る。同じことに思い当たったらしい伊勢崎が慌てて口の中にチョコを放り込み、んまい、と頬をほころばせるのを見てから、言い訳を口にした。
「もう食べ過ぎて飽きたんだよ、チョコ」
「日光甘いもの好きじゃん」
「限度があるだろ」
 ふうん、と納得したのかしていないのかわからない視線を避けて、茶碗を口に運んだ。甘いものは好きだし、飽きるほどは食べていない。やわらかく巻いた髪の隙間から覗く耳を赤く染めたおんなから、本命ですと渡されたその包みの中身を、伊勢崎に食べさせたかっただけだ。
 趣味の悪さも性格の悪さも自覚している。でなければ、こんな相手にこいなどすまい。
「んー、おいしい。俺だけ食べちゃっていいのかな」
「全員分ないんだから、おまえだけで食べとけ。んで、誰にも言うな」
「うん」
 小さな、けれどひとつの芸術品のようなそれを口に運ぶたび、伊勢崎の表情はあどけなく緩んでいく。いつもそんな顔をしていればいいのにと思いながら、無防備な横顔を眺めて飽きないのもいつものことだった。
「ん、日光」
 見詰めていた横顔が突然こちらを向いたので、頬杖を外して口を開いた。なんだと訊く前に放り込まれ、舌の上に広がる甘み。
「最後のいっこ」
 伊勢崎は機嫌良く笑っている。チョコはチョコだ。
 口もとを押さえて目をそらしながら、今どこかでさくらのつぼみが開いたような、そんな気がして日光は呻いた。





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2015.04.24.
東l武日光×東l武伊勢崎のバレンタイン一ヶ月後のある夜半の話。
伊勢崎は待っていました、のに、この甲斐性なしの日光め。