探偵・桂木とその助手・ネウロが警視庁に遊びに来たときのこと。
 桂木が俺の眼鏡を奪い、それをかけて
「ねーネウロ、似合……」
 ばりんっ。
 嫌な音がした。
 とてもとても嫌な音がした。
 俺の眼鏡が割れる音だった。
 せめてみなまで言わせてやれ。
「……」
「……」
「……」
「貴様に似合うのは生ゴミくらいだ」
「ってネウロー! どうしよヒグチさん、ごめんね弁償するよ!」
「いや、いいよ」
 HAL対策で作った偏光グラス、軽く五万はするから。
「ふん、ヤコ帰るぞ」
「もう来んな魔人!」
「ごめんねヒグチさん……このお詫びはいつか必ず……」
「あーあー! しなくていいから!」
 ネウロが魔人の目で凄んできた。こえー。桂木、お前、少しは自分の身の心配をしろ! それが俺(達)の幸せに繋がる。
 二人が去って、床に打ち捨てられた俺の眼鏡が無惨だった。
「また笛吹さんに頼めばいっか」
と考えたのが甘かった。





「なんだと!?」
 昼休み全部使って笛吹さんを探したけど見つからないので、電話して事情(嘘)を話したところ、
「階段から落ちて眼鏡割っただと!?」
「そう、また眼鏡作って欲しいんだけど」
「駄目だ!」
 電話越しでも肩を怒らせて全力で怒鳴っているのがわかる。
「仕事ならとにかく、プライベートで領収書を切るような真似は認めん!」
「いや、だから笛吹さんのポケットマネーから……」
「内線使ってプライベートな電話をしてくるな!」
 がっちゃーん、と無駄に破壊的な音で電話が切られた。
 受話器を見詰めてしばらく呆然とする俺。
 いつだって笛吹さんは正しい。
 けれど俺は眼鏡がないと仕事にならない眼鏡っ子で、それはどうしようもないほど事実だったので、職場全員の同意を得て俺はタクシーで帰路についた。
 なんて優雅で怠惰で愛のない午後三時。





 タクシーの窓から見えたデパートの入り口に、違和感満載で佇む笹が、今日が七月七日、まさしく七夕の日であることを思い出させた。
 きっと織姫と彦星だって、365日分の会えない364日間は、愛しく思ったり切なく想ったり、哀しくて泣いたり遣る瀬なくて泣いたり、運命を恨んだり憎んだり、相手の気持ちも自分の気持ちも疑ってみたりで、ただただ恋い焦がれているだけではない筈だ。
 ――― でも一年に一度、逢えたその日には嬉しいだろうな。
 一年に一度なんて云わないけど、もう二週間くらい会ってないんじゃないだろうか。今日、電話で声を聞くのもそれくらい久しぶりだ。笛吹さんが家に帰ってくるのは二日に一度、しかも決まって俺が寝ている深夜で、彼はきっと、俺を起こさないように静かにしようと努力してくれている。俺も起きて待ったりはしない。だってそんなことでイライラさせて嫌われるのではどうしようもない。
 でもこれだけは云わせて欲しい。
 逢いたい。
 だったら、どうせ眼鏡がなければ仕事にならないのだ、遅くまで待っていて夜更かしだなんて怒られても怖くない。彼を待って起きていよう。
 タクシーを降りて、マンションの向かいにある行きつけのコンビニに入る。店員の兄ちゃんが顔馴染みなので、頼んでプリンを二つ買わせてもらう。
「いつもより高いやつじゃん」
「大奮発だよ」
「七夕だからなあ」
 気持ちを込めて頷く彼も、思い当たる人がいるらしい。残念、俺があげる相手は可愛い女の子じゃなくて、いい年したおっさんなんだよねえ。
 可愛い人だけど。





 午後七時。
 夕飯は冷蔵庫の中から適当に食べ(さすがに火を使おうとは思わない)、テレビもパソコンも新聞さえも見れず、一人寂しく夜は更け始め。
 カタンと控えめに音がして、玄関のドアが開いた。出迎えたいのを我慢して、リビングでじっと待つ。やがて笛吹さんがリビングに入ってきた。
「……おかえり、笛吹さん」
 と。
 出来るだけそっけなく云うと、笛吹さんは「はあああぁ」と大袈裟にも聞こえる声で膝に手をついた。
「何? どうしたの?」
「どうしたはこっちの台詞だ!」
 いきなりすごい剣幕で怒り始めた。
「お前が階段から落ちたっていうから早く帰ってきたのに! 本当に眼鏡しか壊れなかったのか!」
「眼鏡が一番大事なツールなんだけど……」
「お前の体の方が大事だろうが!」
 その笛吹さんの言葉は一人で待っていた寂しさを打ち消して余りあり、切ない気持ちを起こさせた。
「まあ……無事ならいい」
「笛吹さん」
「なんだ?」
 そう応える声はもう怒っていない。
「冷蔵庫にプリン入ってるよ」
 笛吹さんの目が大きく見開かれ、そして柔らかくなるのを見た。さあここでもう一押し、頑張りなさい俺。
「ほい、ヒグチも」
「笛吹さんっ」
 あーもー声裏返りそう。
「七夕なんだし、星を見ようよ、笛吹さん?」
って言えば、来てくれると思ったんだ、絶対に。だってこの人、いい年した大人のくせに、女子中学生みたいにロマンチストなんだから。
「……いいだろう」
 ほらね。
 笛吹さんがベランダの戸を開けて、もうスリッパを履いている。
「ヒグチ?」
 小さく首をかしげる。だからもう、そういうのがいちいち可愛いんだってば!
「来ないのか?」
「今行……うっ」
 転んだ。
 自宅(正しくは居候)のリビングで。
「……見た?」
「見た。ほら、立て」
 スリッパを脱いで俺のとこまで来て手を差し出してくれる笛吹さん。わかってる、これは笛吹さんが、俺が今全然目が見えてないからやってくれてることで、だから全然、甘やかしとかじゃないんだけど、でもさ、
「ありがと」
 恥ずっ……!
「掴まっていいぞ」
「あ、うん、ありがとう……」
 顔が赤くなるのってどうしたら止められるんですか?
 でも手を離すことはできない俺だった。
 ベランダに出る。夏の風はのぺりと暑く皮膚に付きまとう。笛吹さんの前髪が揺れる。パジャマの裾が揺れるのが誘うようで、悩みどころ。
 ロマンチストな笛吹さんは早速星に見惚れてる。
 でもね笛吹さん。考えても見なよ。裸眼で0.1もない人間が、空の星が見えるわけがない。
 だからこれはただの口実。
「あのさー笛吹さん」
「なんだ?」
「キスしたいんですけど」
「……」
「なにその無言」
「……駄目だ」
 眼鏡を壊した罰だ、と。
 笛吹さんは小さく口の中で呟いた。
 ネウロめ! 自分ばっかり桂木といちゃいちゃしやがって! 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえ!
「そういえばお前、眼鏡ないから星なんか見えないだろう」
「あなたと一緒に星を見たかったんですー」
 拗ねたふり。でも笛吹さんには有効。大きく目を見開いて、もうだから、そこが可愛いんだってば!
 す、と笛吹さんが俺を手をとる。
「な、何!?」
「あれが琴座のベガ」
 耳元で囁かれる。
「織姫だな。あれが鷲座のあるタイル、彦星だ」
「へ、へえ……」
 なんなのこの距離、押し倒していいの?
「ヒグチ」
「はいっ」
「……いいぞ」
 キスをしました。





 翌日、情報対策課に行くと、俺の机に眼鏡ケースが置いてあった。
 メッセージカードはなし。
 でも、誰からのものかわかる。
 だって可愛らしいリボンで結んである。男ばっかりのこの課ではちょっと浮くなあ。
「よーヒグチ、なにそれ、彼女からのプレゼント? ってそれ置いて行ったの筑紫さんだけどさ」
「あ、やっぱり」
 いつもごめんね、筑紫さん。うちの人がお世話になってます、なんて。
 新しい眼鏡をかけて、見える世界はクリアで何一つ汚れなんてないようだ。今日も笛吹さんは早く帰ってくるかな? 夜明けまで待ったっていいよ、一緒に星を見ましょう。










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2009.04.21.
ネウロのひぐうす!
家族と恋人すれすれのところで好きあう二人が好きです。
いつも切なくて泣く寸前の気持ちのヒグチと
天然にツボを抑えてくるツンデレの笛吹さんが書きたい一心でした。

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