特に大変な事件、というわけではなかった。
ただちょっと、退屈していたのだ。私はいつも退屈しているから。
だから彼には少し体を張ってもらった。締め切りを守るために事件を欲していた彼を、それなりの代償を払うべきだと諭すと、彼はいともたやすく頷いた。
そして私の傀儡となり、囮となった彼は、私の目論見通り犯人に襲われ、そして助かった。
私が病室に着いたとき、彼は虚ろな目をしていた。ちらりと私を一瞥すると、膝の上に投げ出した自分の両手に目を落とす。
「話は聞いたよ。命に別状はないそうだね」
「……」
「検査入院だし、明日には退院だ。締め切りには間に合うだろう?」
「……」
まるで返事がない。私は諦めて、踵を返した。
「……メル」
美袋君が呟いた。何週間も声を出していないような掠れた声で、小さく。私は足を止めて、彼を振り向く。包帯の巻かれた頭に、その下の病的にやつれた顔。体は小刻みに震えていた。彼は殺してやると呟いて、一筋の涙を零すと、私を見ずにさめざめと泣いた。
触れようと手を伸ばすと彼の体が拒絶を示すように震え、駄々をこねるように首を揺らした。その様子に少し溜息を洩らすと、私は彼を抱きしめた。
彼は私の腕の中で悪態を吐く。
「君のせいで僕はいつも死にそうな目に遭う」
「でもおかげで小説が書けるだろう」
私は静かな声で言う。本来、私に彼を助ける義務もなければ、彼に私を罵る資格などない。確かに彼は今回殺されかけた。しかし反面、そのおかげで小説を書き続けることができるのだ。生き残っている今、彼はその事実に感謝するべきではないだろうか。学生時代、小説家を目指していた彼は、愛する推理小説と心中しようとしていたのだから。
美袋君はすぐに自分のことを棚に上げて、私を人でなしと罵る。私が銘探偵流の方法で事件を解決するのを何度も間近で見ておきながら、私を法的に追及することを諦めネタ帳として頼る彼も、よっぽど人でなしだと思うのだが――言わない優しさを私も持つということを、彼は知ろうともしないのだから。その事実を突きつけると、彼は巧みに目をそらす。今も、それとこれとは話が別だとのたまうのだから始末に負えない。
「君みたいな半端者に私は殺せないよ」
「やってやる」
「どうやって? あのときみたいに井戸に突き落とす? 刃物を使ったりするのは君には無理だ。君は私の体を直接傷つけることなど出来ないよ」
たたみかけると、美袋君はたじろいで私から離れる。その眼が卑屈に濡れている。こんな言葉で懐柔されるような男に、私が殺されるわけがない。
ベッドに片膝を乗せ、左手で彼の頭を固定すると、その耳元に囁いた。
「知らないのか? 銘探偵を殺せるのは推理小説家だけだ」
彼ははっと息を止め、微動だにしない。
「私が殺されるような傑作が書けるものなら、――書いてみたまえ」
そして本当に書いてくるのが美袋君が大馬鹿者たる所以だ。
パソコンから出力して印刷した紙の束を差し出してくる。私はそれを受け取らない。彼はちらりと上目遣いに私を見て、それを机の上に置いた。
「喧嘩売ってるのか? 売られた喧嘩は勿論買うが」
「は? なんでだよ」
「まさか本当に書いてくるとは思わなかった、私が死ぬ小説なんて」
「書けって言ったのは君だろ」
だからって書くか? と言うと、きょとんとした顔で見返してくる。縁起でもない。
「それに大学時代よくやっただろ、犯人当て。もう君に頼らなくても書けるって証明してやる」
「無理だよ」
言いきる私に、読んでから言えよ、と美袋君は珍しく強気だ。まあ、そうでなくては困る。大体今更私に喧嘩を売ったくらいで、本心から脅えるほど美袋君は繊細な人間ではないのだ。彼自身が自覚しないだけで、無神経で自分勝手なのが彼の本質。
「どうかな。私の出てこない君の作品は、トリックは凡庸だし探偵も素人くさいし、文章は読みづらいし、てんで駄目だからね」
「言ったな。今回のはとっておきだからな、短編用にとっておいたのを君のために書き下ろしたんだから、ありがたく読めよ」
「とっておき、ねえ」
「大体文章については絶対に君だけには言われたくない」
「専業作家が素人相手に大人げないね」
「いいからはやく読めよ!」
肩をすくめて読み始める。五枚読んだところで犯人はわかったが、今日は言わない。こういう私の優しさを、彼は知らないままでいるが良い。
-----------------------------------------------------------------
2011.08.28.(2011.11.04.rewrite)
メルの人でなしは鎧だけど、
美袋君のあのナチュラル無自覚な人でなしは
ちょっと怖いなって思います。