人間にとって大事なことは、ふたつだけ。
〈考えること〉と〈愛すること〉。
通称アントニオ。本名は徐淋。中国人ということだけは知っている。
それが、名探偵石動戯作の助手。
年齢は確か石動より十歳ほど年下だったか。最初出会った時に聞いたが、それもよく覚えていない。
なにしろ出会いは十年以上前になる。まだ少年だったアントニオが、事務所裏の路地に倒れていたのだ。頬はこけて、襟足まで伸びた髪は栄養が足りないのかぼさぼさで、何年も着倒したように服はぼろぼろだった。疲労と空腹に肉体が限界を訴えていたようで、抱き起こすと鋭い目で睨まれた。その目の炯りが、彼に気高い雰囲気を与えていた。まるで、絶滅寸前の狼のような。
あれから彼はすくすくと育った。手足は伸び、元々整っていた顔立ちはますます人目に映えるようになった。
その間の石動の変化については、ここでは何も言うまい。
石動にとって時の流れは大した問題ではないのに、気付けば周りの人間が大人になっていて、一人取り残されているように感じるときがある。例えば友人の結婚式に招かれたり、古賀先輩が昇進していたりしたときがそうだ。そういうとき事務所に帰ると、そこには変わらない石動の時間が流れていて、その中にアントニオがいるのを見るとほっとする。蝶が蛹を脱ぐ過程を、石動はずっと見てきたのだから。
アントニオは教育を受けたことがないと言っていたが、頭の回転は速い。元から変な知識はたくさんあって、石動が知らないこともなぜだか知っていた。それに加えて、助手になっても外出したがらなかったアントニオは、石動が事務所の外で調査をしている間に嵩高く積まれたCDを聞き漁り、石動が愛するジャズについての知識を勝手につけていた。
石動にとって、そんなアントニオとの会話は、古賀先輩とのそれよりも楽しいものだった。
それは石動にとって貴重な人材だった。
彼を失ってはいけない。そう思った。
それは、多分、愛だ。
「なあ、アントニオ」
雨の降る窓の外を覗くアントニオの横顔は綺麗だ。鼻筋がすっと通り、長い睫毛が瞳を縁取る。細いたれ目が印象的で、新宿を歩けばモデルにスカウトされるかもしれない。その美男子が、振り向いて微笑む。
「なんですか? 大将」
「おまえ、事務所を出るつもりはないのか?」
言い淀むこともなく、石動は単刀直入に言い放った。ざあざあと雨音が強くなる。窓を閉めろと言おうか、と少し迷った末にやめる。その間にアントニオは窓から離れ、石動の座る机の前に立っていた。
「ありません」
見上げると、思いの外真剣な顔がそこにあった。顔が青ざめているように感じるのは気のせいだろうか? 逆光になっていてわかりづらい。
「どうしてそんなことを聞くんですか? 大将」
「どうしてって」
「それに」
石動の言葉を巧妙に遮って、アントニオは机に両手をついた。
「他に行くところなんてないんです」
叫ぶように悲痛なその言葉が部屋に満ち、雨音が強くなる。ざあざあ、ざあざあ。やはり顔は蒼白になっている。初めて見るその表情に、石動はしばし見蕩れた。
「大将」
「ん?」
「なんとか言って下さいよ」
「うん……」
他に行くところはない、というアントニオの言葉をまずは否定したかったが、それが本質ではないことは、よく人の気持ちがわからないと言われる石動にも理解できた。
「じゃあ、おまえは他に行くところがないからここにいるのか?」
なのに、何故こうも意地の悪い質問をしてしまうのだろうか。後悔するも、一度口から出た言葉は取り消せない。
「それなら、古賀先輩に紹介するくらいして……」
「そんなことは言ってません!」
ばん、とアントニオが机を叩いた。石動がびくりと体を震わせたのを見て、すみませんと慌てて言う。
「……アタシにここを出て行って欲しいのは、大将なんじゃないですか?」
「違う!」
驚いた拍子に、思わず大きな声が出た。これでおあいこだと内心思うが、それより先に言わなければならないことがある。
「それは違うぞ、アントニオ。いくらおまえが助手としての働きをしてくれないからって、ぼくはおまえに出て行って欲しいなんて全く思っていない。その逆だ。ここにいて欲しいからこそ、おまえがいついなくなるかと不安なんだ」
冷静に考えれば、アントニオが事務所を出るつもりがないことくらいすぐにわかる。十年来、一つ屋根の下で苦楽を共にした石動にさえ話せない過去を持つ彼が、今更石動と離れて他人と打ち解けることなど出来るはずがないのだ。
けれど、傍にいて欲しいと切に願うからこそ、その願いが叶わなかったときのことを考えてしまう。いつも身軽なアントニオのことだ、来たときと同じように、身一つでふらりと出て行ったきり帰らないかもしれない。そう思うと体の芯から冷えるような心地がした。
だからそう、ただ安心したかったのだ。
「アタシはここを出たくありません、ずっと大将の傍にいたいんです」
少しほっとした様子で、それでも真剣に言うアントニオの顔を、石動はじっと見詰めた。
「ここにいさせて下さい。大将」
その整った顔を青褪めさせ、ここまで真剣にしたことを、石動は少し――― いや、とても喜んでいた。彼が石動の傍にいたいと、どうやら本気で思っているらしいことも。
アントニオの顔に不安の色が射してきた。そろそろ安心させてやろう。
「ぼくだって、おまえがいないと困るよ。アントニオ」
ほっとした顔。その顔も、好きだ。
そう思った自分に、石動は動揺した。
これは、愛、だろうか?
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2012.04.18.
アン←石です。
家族愛から恋愛へ、気がついたら変化している。