互いの想いを伝え合ってからも、石動は新しい関係になかなか慣れてくれない。
 アントニオはハンモックの上から石動の後頭部を眺めた。
 調査の報告書をまとめているのだろう、今日はずっとパソコンと睨めっこしている。書き方に困るとがしがしと頭を掻くから、髪はぼさぼさだ。
 その石動が、ぱちんと勢い良くエンターキーを叩いた。
 終わりだ。
 それを合図に、アントニオはロッカーの端に手をかけてくるりと体を回転させ、石動の背後に降り立つと、彼を不意打ちで抱き締めることに成功した。
「わっ、わっ、アントニオ!?」
「お疲れ様です、大将。キスしていいですか」
 わざと素っ気なく問うと、アントニオの腕の中で慌てふためいていた石動はぴたりと動きを止め、大きく見開いた目でアントニオを見上げた。その口が震える。
「なっ、えっ、き、き、きっ……」
「キスですよキス。言えませんか? ほら、コール・ポーターが<ソー・イン・ラブ>を作曲したミュージカルは?」
「キス・ミー・ケイト」
 呆けた表情のまま、しっかりとそう返すところはさすが一人ポタ研を名乗っていただけのことはある。
 アントニオはにっこりと笑いかけ、繰り返した。
「ねえ大将、キスしてもいいですか?」
「……なんでこんなおっさんにキスしたいなんて思うんだ?」
「簡単です。大将が好きなんです、アタシは。そう伝えたでしょう?」
 石動が照れて俯く前に、その頬に触れてこちらを向かせる。手を振りほどこうと思えばできるのにそれをしないのは、了承のサインと受け取ってもいいはずだ。ポーズだけ半端に取り繕って必死に目を逸らせるのが愛おしい。
「大将、アタシのことを見てください」
「見てくださいって、おまえ―――
 視線を机のあたりに彷徨わせながら、弱々しく石動が抗議する。アントニオは、ただにこにことその様子を見ていた。
 やがて、観念したように石動がごくりと唾を飲み、真っ直ぐにアントニオを見詰めた。唇をぎゅっと結んで、不安に揺れる瞳を、それでも逸らすまいと必死に筋肉を強張らせて。
 やだなあ、大将。
 アントニオはばれない程度に微笑みを苦笑に替える。
 そんな風に真剣な目で見るなんて。キス、しにくいじゃないですか。
 本当にこの人の無意識は恐ろしい。
 アントニオだって不安なわけではない。彼の瞳に映る自分は、ちゃんと余裕ぶれているだろうか? 不安を見抜かれてはいないだろうか? その瞳の奥を覗いて確かめる勇気はなかった。
 愛されることに慣れていないから。
 愛することに慣れていないから。
 だから彼は口付け一つにこんなにも躊躇してしまう。
 それはアントニオも同じだ。いや、同じだった。この人に出会って愛することの意味を知り、愛されたいと欲した。昼食を食べた昼下がりに彼が決まってする大きな欠伸や、ほとんどお湯みたいなお茶を飲んで不味そうに顔をしかめるのを、明日も明後日も見たいといつの間にか思っていた。
 乾いた心を愛で満たしたのはこの人だ。ならばこの人の心を愛で満たすのは自分でありたい。
 どうか愛されることに慣れて下さい。
 そして良ければ愛して下さい。
 どんな言葉より雄弁に、唇に伝えよう。
 体を強張らせて待つ石動に、アントニオはゆっくりと顔を近付けた。





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2012.01.27.
この二人は付き合ってます。
石動さんが曲名を言う時には躊躇なく
「キス」って言ってくれるのが可愛いなあと思いまして。