家を飛び出るほどの大喧嘩の原因が些細なものであるというのはありふれた恋人同士のようで、その点については悪くないな、と上越は思う。
 衣服の積み上がったカゴを持ち上げ、よっ、と声を出してバランスを整える。洗濯機の前に運んで下ろして屈むと、フローリングの床は冷たく、裸足がぺたりと吸い付いてゆく。閉めた風呂場の扉の隙間から風がそよいで、くるぶしを撫でた。生暖かい、初夏の風だった。
 カゴに溜まった衣服を、一つひとつ手にとって分けていく。清潔さが求められる職業柄、身に付けるものは必然と白が多い。サイズの違う二人分の白いワイシャツ、二人分の白い靴下。白い手袋は、上越しか着けないから一対だけ。制服の上下はクリーニングに出すから、他にカゴの中にあるのは、下着やタオルくらいのものだ。色のついているものは避け、白いものだけ洗濯機に入れる。洗剤と漂白剤を探すのに三分、洗濯機の設定をするのに七分かかり、洗濯槽に水が流れ出すのを見て、ようやく息を緩めた。
 上越は、この家であまり洗濯をしたことがない。





 昨夜、高崎駅でデスクワークを終えた上越が見上げた時計は、十一時を指していた。自分の最終列車で越後湯沢に着いてから、アパートの一室を訪ねるまでに日付は変わり、三度のノックに応じて扉を開けた先輩が、おかえりと言う息が酒気を帯びている。ただいまと微笑んで中に入り、扉を閉めてから吐息を奪った。
「……上官様は待てができないらしいな」
「先輩もでしょ」
 心ゆくまで酒を呑むのも、恋う人に触れるのも許される、二人合わせた休日の夜だった。
 越後湯沢の宿舎は一般人も住むアパートの一室で、上越の名を持つ二人が、隣り合わせに部屋を用意されていた。新幹線は停車駅毎に、在来線は主要な駅にだけ用意される宿舎は、本来異なる価格帯で用意されるものだったが、越後湯沢はそれぞれ一人ずつしかいないこともあり、ここでいいよと上越が言った。せめて角部屋にしろよと先輩が言ったのでそのようになり、少し広い角部屋が上越新幹線にあてがわれ、その隣に下の階から上越線が引っ越した。
 しかし上官の方の上越は、狭い方の部屋をよく好んで出入りする。晩酌をしに。日用品を借りに。ただ一緒に時間を過ごしに。在来の上越線の部屋は主が在室である限り常に開かれていたが、上越はノックを欠かさなかった。扉を開く先輩の顔を見るのが好きだった。
 一夜明け、いま、先輩はこの家にいない。水色の制服は壁に掛かっているから、仕事ではなかった。私服のまま先輩が家を出て行った事実があって、ありきたりの恋人同士のよう、なんてぼんやりと思っているのだから、これきりになるだなんてこの頭は全く考えられないのだろうな、と上越はおかしく思った。けれどそれを誰と共有できるわけでもなかったので、やはりぼんやりと洗濯槽の回るのを見詰めていた。――先輩、いつも何を考えているのだろう。
 制服に合わせるワイシャツも、靴下も手袋も、今は洗濯機の中で一緒になって回っている。たっぷりと水を吸って、洗剤に塗れて、洗濯機が絞りをかけた後には上越が皺を伸ばしてベランダに干す。今日は晴れているから、夜には乾くだろう。そうしたら取り込んで、たたんで、明日には袖を通す。そう、明日になる前に帰ってくると思うのだけれど。
 先輩が出て行くときに開いた扉は勢いがついて、重い音を立てて閉じた。もう知るかとか勝手にしろとか、非対称に歪んだ先輩の口から放たれた言葉の余韻が切られたため、上越が一人きり残った部屋は不思議なほどに静かに感じた。同じようにもう知らないとも、勝手にすればとも怒っていた上越は、釣り上げていた眉をゆっくりと平坦に戻した。いからせていた肩も戻すと、指先は葉の茂った枝のように重く垂れる。深呼吸をすると、直前まで滾っていた思考も共に吐き出されていくようだった。
 頭を振って視線をずらすと、台所が目に入った。夕飯の材料は昨日のうちに先輩が用意しており、冷蔵庫の中に収められている。上越も料理ができないわけではなかったが、今日は先輩が作ることになっていたので、上越にはそれらの材料を調理できなかった。何をどう作るのかは全て先輩の頭の中にあって、その先輩がこの家にいないものだから、どうしようもなかった。
 洗濯機は、と思って振り返ると、乳白色の直方体は何も言わず、あるべき場所にぴったりと収まっていた。その洗濯機が動くときのことを上越は思い出し、そのときに立てられる音を懐かしく思った。自分の体を動かすために、小さな声で呟いた。
「……洗濯をしよう」
 上越が名前を受け継いだときには、既に先輩の元にあった洗濯機は、ごとんごとんと電車の走るのにも似た音を立てて回っている。上越は洗濯機の縁に手をかけて佇み、その音に身を任せていた。行きつ帰りつするそれがふと止まったので視線を下ろすと、洗剤が流されて、新しい水が注がれるところだった。透明の水がゆっくりと満たされ、白い布がふかふかと浮かぶ。





 二人とも頑固な性格であったので、一度喧嘩を始めると、元に戻るのに時間がかかった。仲直りを待たずに出勤の時間がやってきて、それもばらばらであるものだから、冷たい空気のまま距離が離れることもよくあった。いってきます、とそんなときでも二人は言う。いってらっしゃい。ただいま。おかえりなさい。顔を合わせて会話をしないようなときだって、挨拶だけは二人の間を行き来した。だから今日も夜になる頃に先輩がただいまと帰ってきて、自分はそれにおかえりなさいと言うのだと、上越は思っている。越後湯沢のこの家を出た先輩は、そのまま自分の電車に乗って、高崎や長岡の宿舎で一晩でも二晩でも過ごせてしまうけれど、そうはしないだろうなと、洗濯機が回るのを見ながら信じている。
 水音が軽く鼓膜を叩き、内面に潜っていた意識を引き上げた。洗濯槽にもう一度、新しい水が注がれていくところだった。隣の自分の部屋にある、一昨年買い直したばかりの洗濯機は安全のために蓋を閉めなければ動かなかったが、上越より年上のこの洗濯機は蓋を閉めなくても動いている。さらさらと流れてゆく水を見ているうちに、上越は指を伸ばしていた。水は冷たく、肌の上を通り過ぎる。指先に洗い落とすべき汚れはなかったが、流れてゆく感触が心地良い。自分の指を水が滑り落ちていくのを、上越は無心に眺めた。
 水はやがて注がれるのをやめ、再び槽が回り始める。濡れた指を風にさらすと、あたたかいそれはすぐに乾かしてくれた。風は開け放したベランダの向こうから、初夏の匂いと共にゆっくりと家を満たしてかえっていく。太陽の高い時間だ。風は日向の匂いがした。
 先輩、ちゃんと水分とっているかな。上越はふと心配になり、玄関を振り返ったが、扉は閉じたままだった。耳を澄ませたが、廊下も静かで、訪ねて来る人の気配もない。ここは二人しか止まらない駅なのだから、当然のことだった。





 先輩がこの洗濯機を回すとき、上越は決まってその姿を見ることがなかった。先輩はいつも、喧嘩をした後に洗濯を始めた。
 大した量ではない洗濯物を、生地や色ごとに分けて洗濯機に放り込み、洗剤を計りとって、スイッチを押す。先輩の線路を走る車両を思い出させるその音は、ときどき上越を眠りから覚ましたりもする。喧嘩をして疲れ、それでも隣の部屋には戻らずに一人きり眠る上越が目を開けると、ベッドの正面に薄く開いた扉の向こうで、先輩が洗濯をしているらしいことを知る。扉を開け閉めする音は響くから、先輩はそこを開けたきり、閉めないことにしたのだろう。おそらくは無意識になされたその気遣いは、年代物の洗濯機の前ではなんの意味もなかったが、扉だって防ぎきることはできないだろうから別に良かった。ごとんごとん。やはり電車の音みたいなそれを聞きながら、上越は先輩の気遣いを受け取って、再び眠る。朝起きたら謝ろう、と思いながら。
 あるいは、喧嘩をしたまま仕事に向かう日。始発の早い先輩が先に出て行って、帰りは大抵上越の方が遅い。顔を合わせるのが気まずくて終電まで働き、帰ってきた上越が見上げた先で、ワイシャツが夜空に踊っていたりする。なんだか胸がしめつけられて、謝ろう、と上越は思う。
 どうして先輩が洗濯をするのかはわからない。あてつけなのかとか、自分の部屋に帰れという意味なのかとか、いろいろと考えてはどれも違う気がした。ごめんなさい、と告げるために口を開いた上越の機先を制して、悪かった、と先輩は言ってしまう。水と洗剤の匂いのする手が、上越を許してしまう。そんな風にする先輩が、どんな理由にしろ、悪い気持ちで洗濯をしているとは思えなかった。
 洗濯機の中では、透明な水が回っている。規則的に聞こえる音は生活に結びついており、生まれたときから耳慣れた音にも似ている。洗剤の清潔な匂いが槽の中から湧き上がり、鼻をくすぐった。なんであんなに怒ってしまったのだろう。思う上越のこころはすっかり凪いで、たいらかだった。優しくしたいな、という気持ちが自然と出てきて、それは上越の中に最初からずっとあるものだった。
 もし、先輩もいつもこんな風に思っていて、こんな風に思うために洗濯をしていたのなら、ずるいな。気持ちの整理をつけるところを上越に見せないで、先に謝って、喧嘩を終わりにしてしまう。同じ余裕を上越が持てるようになるには、あと何年かかるだろうか。もう自分のいないところで、先輩にこの洗濯機を使わせたくない、と思ったけれど、その回数をゼロにできないこともわかっていた。上越がときどき在来線に揺られに行ったり、新津の鉄道資料館に200系を見に行ったりするように、そういう時間は誰にも等しく必要なものだ。だから、できるだけ喧嘩をしないこと、自分から謝ることを、上越は決めた。




 洗濯槽の回転が止まり、水が全て流れていったので、槽の中に手を伸ばす。多くはない洗濯物は、底にくっつくようになっていた。剥がすために、ほとんど頭をつっこむようにして手を伸ばす。湿った布に指先が触れたとき、背後で玄関の扉が開く音がした。
「先輩!」
 思わず叫んだものだから、洗濯機の中に声が響いた。起き上がって振り返ると、もう一度先輩、と呼ぶ。振り返りながら既にそこにいるのが先輩だと認識できたのは高速鉄道であるからで、上越は自分がこの名前を受け継ぐことができて良かったことはたくさんあるな、と思った。
「ごめんね」
 靴を脱ごうとしていた先輩は、上越の顔を見詰めてぽかんと口を開いた。驚いているその人としっかりと目を合わせ、上越はもう一度繰り返した。
「喧嘩にしてしまったこと、ごめんね」
「あぁ……」
 上越がもう一度繰り返すと、先輩は決まり悪そうに唸った後、俺の方こそ、とぎこちなく右手のコンビニの袋を差し出した。








 先輩が台所で夕飯を作っている間に、上越はベランダで洗濯物を干した。二人でテーブルを囲んで夕飯を食べ、食器を下げる。テーブルを片付けている先輩の後ろを通り、上越は冷蔵庫から先輩の買ってきてくれたものを取り出した。食器棚から銀のスプーンも。
「おいしそうだね、先輩」
「おまえは味を知ってるだろうが」
「すいませんでした」
 スプーンの上で、卵黄色のプリンが揺れる。先輩が買ってきて冷蔵庫に置いていたそれを、上越が勝手に食べてしまったのが今日の喧嘩の発端だった。それから何がどうなって先輩が飛び出すに至ったか、上越だって覚えていない。
「はい、先輩。あーん」
「……」
 上越が笑顔で差し出したスプーンを、ありふれた恋人同士のように先輩がついばんだ。





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2015.04.04.
(愛されるために生まれた)(そうだった)洗濯槽にまわる泡たち /佐藤弓生
やまなしおちなしいみなし。上越幹×在です。