ラフマニノフの音楽は潤っていて、いい匂いがする。楽譜を通した彼との会話は古い友人とのそれのようで、その甘く濡れたメランコリックは記憶の中の日本の匂いによく似ていた。着陸手続きを始める飛行機の中で、いつの間にか指を振っている自分に気付いて苦笑する。頭の中では美しい旋律が奏でられる。ピアノ協奏曲第二番。またどこかで演りたいものだ。
空港を出ると、深呼吸をして肺に日本の空気を詰め込んだ。きっと街中の景色は以前と変わっているのだろうけれど、柔らかく吹く風の匂いに関してだけは、記憶と現実の齟齬がないことを確かめる。いい匂い。
クラクションが僕の注意を惹きつける。視線を向けると、見覚えのある車が待っていた。艶やかな黒のマイバッハ。――― 「My bach?」「Maybach.」交わした会話を思い出す。この通り車には詳しくない僕だけれど、これは好き。見るのも、そしてもちろん乗るのも。
運転席からすらりとした身のこなしで降りた男が、僕のために助手席の扉を開ける。
「おかえり、要」
「ただいま、琴宮君」
僕は微笑んで、ハグと頬への軽いキスを交わす。
今回の日本滞在は一週間。公演と、次の公演準備の合間を縫っての帰国だ。僕は日本に戻ってくるときにだけ、『帰国』という言葉を使う。学生時代から海外で過ごしてきたけれど、僕のhomeは日本だけだから。
もっとも、帰る家は変わった。別に僕が親不孝者というわけではない。同じく音楽家である両親は海外にいて、弟は親友と暮らしているそうだから、誰もいない実家に帰る必要はないのだ。
誰より僕を待っていてくれた、この恋人の家に僕は帰る。
「迎えに来てもらって申し訳ないんだけど、一度弟に会いに行ってもいい?」
「いいとも、送ろう。でも、今夜は駄目だ」
あからさまな彼の言葉に、僕はくすくすと笑ってしまう。僕だって今夜は駄目だ。弟は可愛いけれど、恋人も愛しい。それに弟は逃げないし、恋人を必要以上に待たせるのは僕の主義じゃない。
窓の外を景色が流れ、マイバッハは他の車を次々と追い越していく。ちらりと見えた車内の運転席が右にあり、そんなところでも日本を実感した。マイバッハは当然のように左ハンドルだ。
「ちょっと速すぎるんじゃない」
「ドイツの制限速度よりは遅いだろう?」
「行き先は君の家以外認めないよ」
捕まるのは御免だからね。言外にそう含ませる。名探偵が警察のお世話になるなんて格好がつかないにも程がある。僕はいいのだ。指揮者は作り出す音楽が全てだから。
はいはいと笑う彼を横目で盗み見た。直接会うのはいつ以来だろう。記憶の中の彼の姿は何度も反芻したけれど、隣には本当の彼がいる。彼に会えたらどんな風に触れようか、どんな風に触れさせようか。飛行機の中ではそればかり考えていたのに、運転席と助手席の距離はあまりに遠い。わざと大きく溜息を吐く。
「ねえ、まだ着かない?」
「こら、急かすな」
琴宮君は楽しそうに笑って、ハンドルを右に切る。彼の運転は至極快適で、僕はもう、すっかりリラックスしてしまう。彼の車に乗っているときだけ、シートベルトが邪魔だと思う。高級車にはいくらでも乗っているけれど、こんなにも素晴らしい乗り心地なのは、この運転手が操るこの車だけなのに。
まったく贅沢とは限りがない。
「琴宮君って、運転してるとき何を考えてるの?」
「今は君のことを。日本での君の安全を確保するのが、今回の私の仕事だからね」
「名探偵は護衛もするの?」
「そう、恋人限定のサービスだ」
「……ねえ、触っちゃだめ?」
「行き先が変わってしまうから、だめ」
スピードを落として青信号を見送って、停止した車の中で、彼は僕にキスをした。
高層ビルの最上階にある琴宮君の家に着く頃には日が沈みかけていて、紺色の夜の帳の裾が、赤や黄色のグラデーションに染まる様子が美しかった。キスを重ねる合間に開いた目の端に、刻々と変わる空の色が映りこむ。それは黒にまでなることはなく、地上の光を投影した深い群青となって止まった。
すっかり夜になったことに気が付いて、僕と彼は目を見合わせて笑い、彼の用意していた夕食を一緒に食べた。久しぶりに会った恋人と過ごす夜は短くて物足りない。朝はあっという間にやってきて、僕は弟に会いに行くのを一日延期した。
そうして一週間は瞬く間に過ぎた。
早起きする必要のない朝は遅く、彼の淹れたコーヒーの香りで目を覚ます日々だった。昼間は彼の家でゆっくりと時が過ぎるのを楽しんで、夜は早くから寝室で過ごす自堕落が許された。
結局、弟には会えないまま、今日の午後には日本を発つ。心の中で彼に謝って、僕は来た時と同じように琴宮君の車に乗り込んだ。
「今度はどれくらいドイツにいるんだ」
「そうだなあ、一年くらいは帰って来られないと思う」
琴宮君は少し困ったように眉を下げて微笑む。
「要は知らないかもしれないけれど、一年は長い」
「どうして僕が知らないって思うの?」僕はにこりと笑ってあげる。「僕だってもっと君に会いたいよ」
「それを聞いて安心した。――― 日本にいると君の名前ばかり聞こえるから、つい会いたくなって困る」
かなめ。要。耳から聞こえる音でも、視界に入る漢字でも、日本語の中で僕の名前の使用頻度は高い。僕も日本にいるときは、自分や弟の名前の発音に反応して、振り返ってしまうことがたまにある。
そうしたものに触れる度に僕を思い出す彼は、僕が初めて知る彼だ。つい笑顔になってしまう。
「嬉しい」
「こっちは大変なんだぞ。要注意とか要相談とか、ついカナメと読んでしまうし、いちいち君のことを思い出してさみしい」
レトリックを好む彼にしては、随分ストレートな物言いだった。笑顔の僕を見てさらに憤慨しているのが面白い。僕もお返しをしてあげることにする。
「でも、僕だって君の名前を聞くと会話を止めてしまうもの」
「kingが使われる慣用句なんて、そんなにあったかな」
「まあ、要よりは使用頻度は低いね」
ほらね、と琴宮君はすっかり拗ねている。彼が拗ねるなんて珍しい。すっかり楽しくなってきた。
「じゃあ一緒にドイツ行かない? 飛行機のチケットは僕がなんとかするから」
オフシーズンの、しかも平日に、ファーストクラスの席はなかなか埋まらないだろうから心配ない。琴宮君と空の旅はしたことがないけれど、きっと退屈しないと確信する。しかし彼はゆっくりと首を振った。
「悪いけど、しばらく日本を離れられない」
「難事件なの? 話を聞かせて」
僕は助手席から身を乗り出した。周りに名探偵が多いおかげで、事件の解決に関わった経験なら少なくない。僕だって役に立てるかもしれない。
けれど琴宮君のリアクションは変わらなかった。いつも自信に満ちた彼が僕にだけ見せる、少し困ったような顔が僕は好き。
「君に解かせるわけにはいかないよ」
「助手だと思って」
「事件は一つだけじゃない。全て話していたら君は飛行機を逃してしまう」
「なびかないなあ」
取り付く島もない。僕は両手を上げておてあげ、と言う。
「全部解決したらドイツに来てくれる?」
「もちろん」
滑らかに車が停まり、さあ着きましたよconductor、と彼が僕のシートベルトを外した。近付いた体はそのまま距離を縮めて、一点において零になる。首を傾げて深く舌を絡める。髪、耳、首筋。指先に記憶させるように撫でると、彼の手も同様に僕の体をなぞった。皮膚の上をすべる指が、シャツの上で止まる。合わせられた左右の布の隙間に親指が入り込み、人差し指がボタンを押した。
「だーめ、もう、さんざんしたのに」
「足りない」
首に顔が寄せられる。シャツの第一ボタンは既に開けられ、琴宮君は第二ボタンに着手していた。
「痕、つけさせて」
懇願するように舌先で触れられて、拒めるわけがなかった。ボタンの下に、二重三重につけられる赤い花。満足したのか、彼は首元から離れるとすぐにボタンを留めた。
見詰め合って微笑む時間は、全ての恋人にとって至福だと思う。
セキュリティチェックに向かうまでは一緒にいられるけれど、キスができるのは車の中までだ。最後は僕からキスをした。名残り惜しさを断ち切るように、触れるのは唇だけにした。
「……行こうか」
至近距離の唇が紡ぐ言葉に頷いて、僕達は車を降りた。
搭乗までにはまだ時間があった。空港に併設されたカフェでどうでも良い話をして時間を潰す。もっとも、この一週間彼とした会話の中で、何か実のあるものがあったかと問われれば、ないと答えるしかないのだけれど。
「そろそろ時間だ」
先に気付いたのは琴宮君だった。意識して時計を見ないようにしていた僕は、とうとう立ち上がらなくてはならなかった。
「体調に気を付けて。電話をおくれ。君の声が聞きたくなるから」
「じゃあ僕には手紙をちょうだい。何度でも読み返せるように」
君のいないところで君の名前を聞いても、さみしくならないように。
セキュリティチェックは空いていて、すぐに受けられそうだった。順番待ちの列に並びながら、目を閉じて息を吸い込み、日本の空気を味わう。完璧主義のさみしがりや、ラフマニノフの匂いともこれでお別れ。
ああ、しまった。大事なことを忘れているのに気が付いて、僕はすいませんと断り、列を抜け出して引き返す。僕がセキュリティチェックを待つのを遠くで眺めていた琴宮くんが、驚いて駆け寄ってきた。
空港はもう半分治外法権みたいなものだ。床に引かれた線より先には戻れない。だからその線越しに、僕は短く彼に請う。
「名前呼んで」
見開かれた瞳が一拍分の呼吸を置いて細められ、彼は優しく微笑んだ。
「かなめ。好きだよ」
「僕も」
「呼んで」
「好きだよ、琴宮君。――― いってきます」
「いってらっしゃい」
ハグはした。キスもした。名前を呼んでもらったからもう完璧。だってこれからしばらく僕の名前を呼ぶのは君ではないのだから、君には今呼んでもらわないとね。
彼に大きく手を振って、僕は一週間のバカンスにさよならを告げた。オーケストラとオーディエンスが僕を、依頼人と事件が彼を待っている。彼の残した赤い花が、しばしさみしさを紛らわせてくれるだろう。
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2012.06.24.
「セナール (Senar) 」とは、
セルゲイ (Sergei) 、ナターリヤ (Natalia) 、ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったものである。
――wikipediaより。
セナールはセルゲイ・ラフマニノフの別荘、ナターリヤは彼の妻の名前だそうです
今回はいつもとちょっと付き合い方の違う琴要。
琴宮さんの活動拠点は日本で、要さんだけ世界を飛び回っています。
マイバッハという車は大変格好良いので、超高級車ですがぜひ琴宮さんに乗り回して欲しいです。