ある朝目覚めると世の中はまだ夜の明けやらぬ早朝で、眠い目を擦りながら捲ったカーテンの向こうに薄明の、うっすらと霧がかかっているように明瞭としない風景を認めた高階は、そのどこかにある病院で今も眠っている筈の、恋人を迎えに行こうと思った。
 機敏な彼には珍しく、緩慢な動作でジャケットを羽織り、革靴の爪先をとんと玄関口に打ち鳴らす。指先で触れたドアノブはひんやりと冷え切っており、高階は一瞬躊躇したものの、力強く掴んで扉を押し開けた。
 かすかに明らむ空の下、鳥も獣も寝静まり、しんと静かだ。耳を澄ませると救急車のサイレンが遠く聞こえるような気がしたが、これはもちろん幻聴である。高階と彼の恋人の、眠りを妨げるものはない。血を血で洗う戦場で戦う医者達に、そんな朝があっても良い。これももちろん幻想である。
 ふあ、と高階が漏らしたあくびは、彼の恋人がする仕草とよく似ていた。猫のように目を細め、犬歯の見えそうなほど口を開く。あくびの息を吐き出すと、唇を楕円にすぼめて閉じていく。開いた目の端にうっすらと涙が残っていることもあり、ちょうど今高階がしたように、指の背で拭い去るものだった。
 そういえばあの人の煙草の灰を落とす仕草が、自分によく似てきた気がする、と自分が恋人によく似た仕草をしたことには気付かずに、高階は思い出す。以前はすぐに灰皿に擦りつけては次の一本に火をつけるチェーンスモーカーだったのに、ここ最近は高階と同様に、灰皿の縁でとんと叩いて灰を落とし、わずかばかり寿命を伸ばす。きっとあの人気付いていない、と思うと楽しい。人気のない道すがら、ふふっと笑い声を漏らす。
 夫婦は互いに似てくるとよく言う通り、一緒に暮らしている以上はどこか似てくるものなのだろうと思う高階は、やはり自分が彼に似ていく部分に気付いていない。嫌味の言い方、メスを持つ手の角度、朝食の焼き魚を食べる順番。挙げていけばきりがないほどあるのだが、似ていない部分も同じくらいにあるものだから、当人が気付かないのも無理はない。逆鱗に触れたときに片眉を上げる癖はちっとも治らないし、洗濯物のタオルを畳む恋人がタグを表に出すのはいつまでも気に食わない。だからこんなに似ていない二人が惹かれ合うなんて不思議なものだなと、高階は本気で考えている。
 病院へと続く丘を、一足ごとに踏みしめ登る。厚い革靴の底が地面を叩き、まとわりつくような靄を払うも再び戻ってくるような感触が苛立たしい。ふと気配を感じ、高階は視線を上げた。そこには未だ薄明の、橙の滲む空があり、それを背に恋人が立っている。光の加減で影になったシルエットの中、咥えた煙草の先が赤い。
「なんだ、起きてたんですか――渡海先生」
 清潔な白衣に血の代わりに光を浴びて、おこがましくも神々しくさえ見えた。目を細めた高階に、渡海は煙草を持つ手を持ち上げる。丘の上の強風に煙はすぐに霧散して、白衣の裾が絶え間なく煽られる。喫煙に適した場所ではない。ということはつまり、高階を待っていたのだろう。
「起きていたとも。さっきまでオペだ」
「それはそれは、おつかれさまです」
「朝日でも拝みながら一服しようと出てみれば、あんたが歩いてくるのが見えた」
「ええ、あなたを迎えに来たんです」
 微笑む高階に渡海は肩をすくめ、
「迎えにって、家にか? まだ帰れないぞ」
「仕方ありませんね。私達、医者ですから」
 言いつつ不満気な高階に、渡海は白衣の袖を広げてまあなと笑った。いつも肩に引っ掛けているだけの彼の白衣も、きちんと袖を通せばそれなりで、まるで医師免許をとりたての医師のように初々しい。
「普段からきちんと着ていればいいのに」
「え?」
「なんでもありません」
 渡海が医者でなければきっと、高階は惹かれなかった。渡海の方でも同様だろう。救っては積み上げた命の先にこの恋人があるのなら、医師を目指した自分の動機は随分不純になってしまう。口元を緩め、渡海の方ではどうだか知らないが、と最近剣呑な恋人の目をちらと見上げる。
「血でもついてるか?」
 高階の視線に気付き、渡海はにやりと口の端を上げた。いいえと高階は澄まして答え、傲岸不遜な手術職人に、口には出さず言ってやる。――私達は医者だから、命を救うことしかできません。恋人としての高階が、こう続く。――でも私はあなたの恋人だから、あなた一人くらいは救ってあげますよ。
 ふと風が止んで穏やかな丘の上で、高階は病院の棟へと歩き出す。
「では、あなたの当直が終わるまで、外科準備室で待っていますよ。私は今日は休みですから」
 それにしても眠い、早起きなんてするものじゃありませんねと高階があくびをする様子を見て、それが自分の仕草とよく似ているのに渡海は気が付いた。目を瞠り、ぎこちなく逸すと、あーあと大きく伸びをする。上を向いた視界には光を含んで明けゆく空が広がり、眼下には桜宮の街がある。朝靄はとうに消え、渡海が救った命と、恋人の家がそこにある。
「あーあ、家に帰りたいなあ」
「だから、待ってますってば」





-----------------------------------------------------------------
2014.7.1.
Twitterの曲名&CPリクエストで書いた、ACIDMANの『赤橙』でたかとか。
Youtube
たかとかは二人共、どこまでいっても医者なのがいいなあと思います。