大きな駅に着くと、それまで話していた三人が一斉に降り、猫丸と八木沢だけが車内に取り残された。プシューと閉じた扉の向こうに手を振る。たった三人いなくなっただけなのに、動き出した電車の中がやけに寂しく感じられる。一駅、二駅。八木沢は猫丸を家まで送って行くことにして、自宅の最寄り駅を見送った。猫丸は気付いた筈だが、それを当然のように受け入れて、飲み会で出た鍋の締めをラーメンにするかおじやにするかの地域性について熱く語っている。それによると九州地方ではラーメンが多いらしいが、いつものように八木沢を担ごうとしているだけかもしれないので信憑性は低い。
 電車のアナウンスが猫丸の家の最寄り駅を告げる。
 猫丸に続いて降りると、猫丸は振り返ってにやりと笑い、
「おい八木沢、ラーメン食べて行こう」
と持ちかけてきた。
「ラーメンですか」
「うん。ラーメンラーメン連呼してたら食べたくなっちまった。今日の締めはおじやだったから構わないだろ。ささ、ラーメンラーメン。僕ん家の近くのあのラーメン屋、まだやってるからさ。味噌塩醤油、トンコツラーメン。どれにしようかなあ迷っちまうなあ。もちろん八木沢のおごりだぞ。僕は今日財布持ってきてないからな」
「あの、猫丸先輩」
「なんだよ」
「非常に申し上げにくいのですが……」
 八木沢は財布を取り出し、札入れを開いて見せた。
 野口英世も樋口一葉も福沢諭吉も、一人もいない。続いて小銭入れを開くと、五百円玉が一枚と百円玉以下が数枚ずつ。
「……」
 猫丸はその悲しい現実を凝視した後、
「……仕方ない。カップ麺で我慢するか」
とがっくりと肩を落とした。
 二人でコンビニまでの道を歩く。それぞれの家に帰る人を乗せた光が、すぐ横の高架に寄せては過ぎ行く。寒い、と呟いて口元にかざした猫丸の左手を取って、八木沢は自分のポケットに突っ込んだ。猫丸は何か言いかけ、けれど手の暖かさに満足したのか、開いた口を何も言わずに閉じた。
 二人とも黙って、定期的に訪れる電車の音に耳を澄ませて歩く。
 コンビニでそれぞれお気に入りのカップ麺を選び、会計は八木沢が持った。合わせて五百二十八円。財布の中身がいよいよ寂しい。
 コンビニを出ると、今度は猫丸から手を繋いで来た。
「寒いですか?」
 コンビニの中は暖房が効いていたので、猫丸の手はまだ暖かい。ここから猫丸の家までは三分もかからないので、そう冷える心配もない。
「黙ってあっためろ」
「はいはい」
「八木沢のくせに生意気」
 ぼそりとドスのきいた声音で呟くが、手を離さないので何も怖くない。八木沢は微笑んで、その手をぎゅっと握り返した。


 猫丸の家に着くと、まずはストーブのスイッチを入れ、それからコンロにやかんをかけてお湯を沸かす。部屋はなかなか暖まらない。寒がりの猫丸は「あー寒、うー寒」と言いながら半纏を着て、ストーブの前に体育座りをしている。八木沢はコンロの傍を離れるわけにもいかず、その背中をじっと見ていた。ストーブのごうごうという音がやけに耳に付く。
 やがて甲高くヤカンが鳴き、お湯が沸いたことを知らせた。猫丸が近寄ってきて隣でカップ麺の蓋を開け、かやくを取り出して粉末スープを開ける。半纏を着ているからか、その手付きがやけにもそもそとして見える。猫丸の用意したカップにお湯を注ぎ、二人でそれを卓袱台に運んだ。
 向い合って三分。今日の猫丸は珍しく黙りがちで、今もカップ麺の蓋を見詰めてじっとしている。どこかぎこちない空気に耐え切れず、八木沢が口を開いた。
「……猫丸先輩、もうすぐ卒業ですね」
 猫丸の肩がぴくりと動き、柔らかそうな前髪が揺れた。
 今日は猫丸たちの世代の卒業祝いの飲み会だった。慣習で、こういう会では祝われる側は支払わないことになっている。だから猫丸は財布を持って来なかったし、その分余計に払うことになった八木沢の財布の中身はすっからかんだ。
「そうだなあ」
 顔を上げた猫丸は、予想に反してのんびりとした声で答えた。
「でも僕は他の奴らと違って就職するわけじゃないし、今まで通りバイトして好きなことやってくつもりだし。大学だってもともと大して授業に出てたわけじゃないんだし、案外今より顔出すかも知れないしな」
「そうですね。他の先輩は、そりゃ大分変わるでしょうけど」
 応じる八木沢も、緊張を解いてのんびりとした声になる。
 帰りの電車の中からずっと、猫丸がその話題に触れられたくないという雰囲気を出しているような気がしていた。鍋の締めの地域性なんておかしな話題を持ちだしてきたと思ったら、その後はいつもの饒舌が鳴りを潜めてしまったのだからそう思っても仕方がない。杞憂だったなら良かった、と八木沢はすっかり肩の荷を下ろした気分だった。
 ところが猫丸は少し首を傾げて、
「……変わるかなあ」
と聞いた。
「変わる……んじゃないですか、やっぱり」
 どこかぼんやりとしたその声に、戸惑いながら八木沢は答えた。
 キッチンタイマーが三分の経過を知らせる。
 蓋を剥がし、割り箸を割った。猫丸は自分の箸を使う。八木沢は醤油、猫丸はトンコツ。二つの香りが部屋に満ちて食欲をそそる。
 二人してずるずるとラーメンをすすっていると、しばらくして、
「なあ」
と猫丸が声を上げた。無理やり呑気を装っているような、少し硬い声。
「彼女作ったっていいんだぞ」
 その言葉の意味を理解するのに、八木沢の頭には少し時間が必要だった。
「……は? どういうことですか」
「いや、だから、僕が卒業したらもう、おまえが大学で何したって僕にはわからないんだし――」
「わかるでしょう。僕に彼女なんかできたらみんながあなたに教えますよ」
「そりゃ、そうかもしれないけど……」
 猫丸の態度はなかなか煮え切らない。
「だって、このまま続けても伸びてぶよぶよになったラーメンみたいになるだけだ。そんなの食べられたものじゃないだろう」
 そう言って力なく笑う猫丸の顔に胸が詰まり、八木沢は気付いたときには怒鳴っていた。
「なんなんですか、さっきから! あなた、僕のこと馬鹿にしてるんですか!? 『不器用で世渡り下手でお人好し』な僕のことが、あなた好きなんじゃないんですか!」
 それはいつだったか猫丸が八木沢のことを評した台詞だ。八木沢の剣幕に猫丸はその丸い瞳をさらに大きく見開いた。一度付いた勢いは止まらず、八木沢は続ける。
「そんな男が、たとえバレないとしても浮気なんかできると思ってるんですか? そりゃ、あなたの気持ちにさんざん気付かなくて傷付けてきたのは謝りますけど――そろそろ信じて下さい。僕は、あなたが好きなんです!」
 言い終わると、熱くなった八木沢の心を冷やすように、部屋がしんとなる。八木沢はじっと猫丸を見詰めた。最初は八木沢の顔を見詰めていた猫丸だったが、視線を下げてみるみるうちに俯いてしまった。それを見ると八木沢も、たった今言った内容を反芻して後悔する気持ちになってくる。
「……猫丸先輩」
 ごめんなさい、と続けようとしたが、それを遮って
「うん」
 何に頷いたのか、猫丸先輩はがっとラーメンのカップを掴み、残った細かな麺とスープを一気に飲み干した。
 八木沢は唖然としてそれを見守る。
「……ふうっ、ごちそうさま」
「はあ、それは、どうも」
「なあ八木沢」
 箸を置いて、猫丸は八木沢に正面から向き直る。
「悪かった」
 滅多に自分の非を認めない猫丸が頭を下げたことに、八木沢は慌てた。
「そんな、謝るほどのことじゃ、……」
 いいんだよ、と猫丸は苦笑いを浮かべる。
「別におまえのことを信じてなかったわけじゃないんだ――ただ、みんな変わっていくから」
 みんな、とは一緒に卒業する同期のことだろう。趣味に生きる猫丸と違い、彼らは堅実に就職し、やがては結婚をして子供を育てるのだろう。バイトに明け暮れ、同性である自分と付き合っている猫丸にはどちらの未来も訪れないのだ、と気付いて八木沢は愕然とした。
「おまえも変わっていくんじゃないかって、不安になったんだ」
 柄にもない、と照れたように猫丸が頭を掻く。その手を取って、八木沢は両手で包むようにそっと握った。
「信じて下さい、猫丸先輩。あなたが僕から離れない限り、僕があなたの傍を離れることはありません。どんなに不器用だと言われようとも、世渡り下手と言われようとも、ずっとあなただけを見ています。僕が人並み以上にできることなんてないですけど、でも、あなたを幸せにすることだけはできるつもりでいます」
 聞いていた猫丸の顔がだんだん赤くなり、
「なに、言ってんだ。八木沢のくせに生意気」
と空いた手でデコピンをしてきた。いたっ、と思わず手を離す。
「生意気って、ひどいなあ」
「いいんだよ、おまえは『不器用で世渡り下手でお人好し』で。僕はおまえのそういうところが好きなんだから」
 いつもは見せない優しい瞳で言われては、八木沢は何も言い返せなくなってしまう。こういうところが敵わないなあ、といつも思う。
「……今日は泊まっていっていいですか」
「うわ、この俗物」
「猫丸先輩」
「わかったわかった、そんな険のこもった目で見るんじゃありませんよ。まったく、八木沢は怒ると怖いんだから」
「うっ……すみません」
 八木沢が謝るのを見て、猫丸は楽しそうに笑う。が、ふと笑うのを止めたかと思うと、
「八木沢」
と眉を寄せた深刻そうな顔をする。まだ何か問題があっただろうか? 思わず居住まいを正す。
 猫丸の指がすっと伸びて、
「おまえのそれ、伸びてるんじゃないか?」
 ラーメン。
 指差されたカップの中をおそるおそる覗くと――
「うわあ……」
 半分ほど残った麺がスープを吸って膨張し、カップの中は見るも無残な状況になっていた。
 猫丸と顔を見合わせた八木沢が
「これだって食べられます」
と悔しさを滲ませて答えると、猫丸はぷっと吹き出して、やはり楽しそうに笑った。





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2012.02.02.
twitterで募集したリクエストで、
「二人でカップラーメン食べてる八木猫」でした。
猫丸先輩から八木沢さんへの長い長い片思いの末に付き合っているという設定です。
あと鍋の締めの地域性なんて
全く調べていないデマ情報、嘘っぱちですのでジョークとして捉えて下さいませ。