かつてこの城にはキングがいて、クイーンがいて、その後ろにはルーク、ビショップ、ナイトに、ポーンが控えていた。けれど城はいつしか崩れ、ナイトとポーンは去り、ルークとビショップはただ怯え、クイーンだけが傷付いた。
 崩壊の始まりはきっと、クイーンがもう一人のナイトに、恋をしたから。





 手術室の隣にある手術準備室を見る時、彼の視線は少しだけ滑る。その視線のずらし方は非常に手馴れていて、とても滑らかだったので、しばらくは世良も気付かなかった。気付いてからは世良のほうが、そんな彼の姿からぎこちなく視線を逸らした。けれど自分でもあまりに不器用だと感じるそれは、逆に彼の注意を惹いたらしい。あるとき高階は振り返り、にこりと笑んだ。
「どうか、しましたか? 世良くん」
「いえ」
 否定して目を逸らしたが、狸と称される高階の笑顔は世良を捉えたままだ。首を回したが、その視線はぴったりと世良の左頬に貼り付いて離れなかった。その状態のまま三歩進んで、世良はやっと観念する。
「……渡海先生は、お元気でしょうか」
「知りません」
 折角正直に言ったのに、高階はぴしゃりと、世良の言葉を一太刀の下に切り捨てた。あまりに理不尽な言いように、世良は思わず黙り込む。高階らしくないし、まさか怒っているのだろうか。世良はちらりと、横目で高階の顔を伺って、すぐに逸らした。
 見てはいけないものを見てしまったような背徳感が、世良の目を逸らさせた。高階にそれを気付かれたらと思うと、心臓の鼓動が早まりすらした。それほどまでに高階の表情は、世良の予想から外れていた。
 遠くを見詰めて焦がれるような。
 その表情に名付ける感情を、世良は多分知っていた。けれどその名前があまりに高階と渡海との間柄に不適切であるように思えたので、似て非なる別の名前なのではないかと己に言い聞かせた。
 その名前はきっと、『寂しい』と言うのだ。
 そうに違いないと、世良は自分を落ち着かせた。
 最初、高階と渡海は仲が悪かった。意気揚々と帝華大から東城大に乗り込んできた高階に、十年講師の手術職人は決して馴染もうとしなかったし、高階の態度も友好的とは言い難かった。けれど渡海の復讐に、手を貸したのは高階だった。阿修羅と悪魔が手を取り合って、たった一つのペアンを取り出そうとした手術。結局その試みは失敗したけれど、あの手術を思うとき、世良はいつでも無意識に背中を正してしまう。あの手術室の張り詰めた空気を思い出して、それから、あれ以来姿を消した、寂しがりの悪魔を思って。
 彼の代わりと言うわけではないが、一月前、モンテカルロのエトワール、天城雪彦が東城大に赴任した。
 天城の引き起こした波乱は既に佐伯総合外科を引っ掻き回し、世良には過去を懐かしむ暇もない。けれどこうして高階と歩いていると、何かが足りないような気持ちになってむず痒かった。
 渡海がいたら。
 そう思わずにはいられなかった。渡海はきっと、天城とも反発するだろう。いつか壊すことを誓って、だからこそ最も佐伯外科に忠誠を尽くしていたと言える渡海は、きっと。そうなれば同じく天城と相対する高階とは、手を組んでいたかも知れない。現在進行形で天城に振り回される世良には、あり得たかも知れないそんな未来が微笑ましかった。
 高階も、そう思っているのかもしれない。――― 渡海がいたら。
 世良はもう一度、高階の表情を盗み見た。けれどそこには、先程の余韻は微塵も残っていなかった。それに安堵したけれど、一方で、もう一度見られるものなら見たいと、世良の心に残る少年の部分が疼いた。
「高階先生」
 天衣無縫な天城の好奇心が伝染したのか、世良はつい、口を滑らせた。
「渡海先生が、いつか戻ってくるといいですね」
 その途端、阿修羅が世良を睨んだ。世良は肩をびくりと震わせて立ち竦む。世良くん、と静かな声で呼ぶ、その笑顔の凄みは世良を萎縮させるに充分だった。
「あんな人を懐かしむのは、おやめなさい」
 はい、と他に返す言葉がなくて、世良はその場に釘付けになったように立っていた。高階は溜息を吐いて、ほら、行きますよと踵を返す。
 その顔が、世良から見えなくなるほんの一瞬前。
 高階の目が伏せられて、続いて痛みを堪えているように眉を顰めた。
 ああ、もうその表情に、『寂しい』と名付けることはできなくなってしまった。
 世良は両目を右手で覆った。
 あの手術がなければ、渡海は今でもここにいたかもしれない。いや、高階が東城大に来たときから、全ては決まっていたのかも。そう考えると、渡海を追い出したのは高階だと言うことすらできてしまう。
 指の隙間から高階を見る。無造作に羽織った白衣。その背中が小さく見えたのは、彼が小柄なせいだけではないだろう。
 高階先生。高階先生。そんなことを言ったって、だって渡海先生に帰ってきて欲しいと誰より思っているのは、貴方なんじゃないですか。
「何してるんですか、世良くん」
 高階が廊下の先で振り返った。
「顔が真っ赤ですよ」
 老獪なクイーンはにやりと笑い、小首を傾げることすらしてみせた。世良がどこまで気付いたと思っているのか、いや何も気付いていないと思っていても、彼ならこれくらいの小芝居はしてみせる。
 役者が違う。
 もしかしたら高階に気付かされたのかも知れないと、世良はそこまで疑った。高階ならあり得るし、贖罪のつもりなのかも知れないと、その馬鹿げた思いつきはすとんと世良の腑に落ちた。
 たとえ自分が渡海を追い出したのだと悔いていても、高階は今後微塵もそれを見せないだろう。他の何を悔いることがあっても、決してそれだけは。
 なぜならそれは引き金を引いた彼の心を衆目に晒すことであり、高階のプライドはそれを許さないだろうからだ。だからこそあの手術に立ち会った、ある意味共犯とも言える世良にだけ打ち明けたのかも知れなかった。
 全てが想像にすぎないけれど。
 世良は妄想とも言えるそれを掻き消すように首を振って、なんでもないですと言い返す。まだ顔は赤いだろうか。高階はそうですか、と優しく笑った。





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2012.10.11.
「秘事=ひめごと」です。
天城先生が来てから一月程経った頃のおはなしですが、
最初のモノローグだけケルベロス後。世良視点の高階先生。
佐伯外科の面々をチェスの駒に例えた天城先生が、もし渡海先生を例えたらナイトかなあと。
ルークと迷いましたが、女王と騎士の密会を想像したら大変萌えたのでした。