統制機構を出ると、人がみな空を見上げていた。
 つられて、ジンも空を見上げる。頂きは青いが、屋根の縁は橙に染まり、じき日が暮れる。出たばかりの統制機構支部の上から、鐘の鳴る音が街へと響いていった。いつもと変わらぬ夕方。ジンは頭の角度を戻すと、見上げる人々の間を通り、家へと急ぐ。
 今日は帰ってくるんだろ、と家を出るとき兄に訊かれた。
 空を見上げるのとは異なる向きに首を捻り、もちろん、とジンは答えた。しばらく遠征も視察も予定はないし、と続ける。そうかと兄は頷き、じゃあ行って来い、とジンの髪をぐしゃぐしゃにした。およそ人を送り出すときにすることじゃない。なんなのもう、と怒りながら兄に触れられた髪が温かく、ジンは笑顔で家を出た。
 それから帰るまで忘れていたけれど、今日は何かあったっけ。自分達の誕生日でもないし、一緒に暮らし始めた記念日でもなければ、ジンが想いを伝えた日でもない。兄がそれを受け入れてくれた日は、一月以上前に過ぎている。何かあったっけ。再びジンは思い出そうとして、思い出せないうちに、家に着いた。
「ただいま、兄さん」
「おう」
と、家の中から兄が出てくる。エプロンの前掛けで手を拭いているのは、料理をしていたからだろう。
 今日って何かあったっけ、と訊きたいジンの先手を打って、とりあえず着替えて来いよ、と兄は言う。
「外に行くから、厚着しろよ」
「え? なんて?」
 着替えながら部屋の中から問い返すと、おそらくキッチンに戻った兄は、大声で答える。
「月見に行くぞ」





 初秋とは言え夜は冷えるから、ジンは薄手のセーターを着て、その上に仏頂面を載せている。
「なんで、月見? 十五夜は先月終わってるよ、兄さん」
「はいはい」
 兄はろくに応じてくれない。ユキアネサの一つも突きつけてやりたいけれど、両手とも兄に持たされたバスケットで埋まっているのが憎い。振り回さないように、とあらかじめ釘を打たれているのが尚の事。
「兄さん、この中身なんなの?」
「いいからいいから」
 先を行く兄はジンの方を振り返りもせず、生返事しか寄越さない。「もう、兄さん!」怒るとようやく振り返ったが、もうちょっとだ、と素っ気ない。もうちょっとってどれくらい、と聞き分けのない子供のように訊きかけて、ジンは道の先を見た。なだらかな丘陵の頂上まで、本当にもう少しだった。
 用意をしている間に日は没し、もう完全に夜である。見上げると黄色の月は満ちている。舌を打って、兄の背中を追いかけた。月は嫌いだ。兄だって知っている筈なのに。
 月が落ちてくる、と昔はよく、泣いていた。
 大丈夫だ、とその度に兄は宥めてくれた。ジンの手を握り、頭を撫で、強い瞳で笑ってくれた。だからジンも安心できたのだ。兄さんがいてくれるなら、満月だって怖くない。二人きりで森に薪を取りに行くのだって平気だった。ときどき手も繋いでくれて、怖かったけれど役得に感じることもあったくらい。
 今の状況は全然違う。家でくつろいでいれば月に怯えることもなかったのに、無理やり連れ出されたものだからニットで温められた腕にも鳥肌が立ちそうだ。手が冷たい。
 兄が自分の気持ちを汲んでくれないことがこんなにつらい。
 丘の頂上に着いてようやく止まった兄の服の裾を掴み、ジンは月を見上げなかった。見上げなくてもそこに黄色い満月があるのはわかっている。月光を感じる器官の持ち合わせはなかったが、僅かに露出した肌にそれが注いでいるようで嫌だった。今この場所で、なにものもジンと月を隔ててくれない。
「……兄さん、帰ろうよ」
 絞り出した声は、かつて泣いた子供のように、か細く怯えていた。
 兄は息を呑んで振り返り、服を掴むジンの指を解いて握る。温かい手。じんわりと熱が移る。見上げると、兄は優しく微笑んでいた。その体がジンと月の間に入り、ジンから月影を隠してくれていた。
「もうちょっとだ、ジン」丘の上に着いているのに、兄はおかしなことを言う。「いや、始まってるか。ほら、見てみろよ」
 兄が体を滑らせたので、視界に月が飛び込んでくる。黄色い満月――
 と思ったけれど、そこにあったのは赤黒い、月ほどの大きさの円盤だった。
「……これは」
「皆既月食だってよ。月が消えるらしいぜ」その解釈は兄らしく大雑把に過ぎたが、訂正する必要も感じなかった。兄の笑顔があんまり優しくて。「おまえの月見には、ぴったりの晩だ」
 バスケットを開けると、サンドイッチやフルーツなどが詰められていた。そして兄の荷物はレジャーシートと水筒。丘に敷いたシートの上にバスケットを置き、挟んで座った。
 空には月が浮かんでいるのに、見上げても怖くない。
 バスケットの中身が減るにつれ、赤い月が暗く消えていく。隣には兄がいて、兄の作ったものを食べている。たぶん、今なら月が明るくても気にならないな、とジンは思った。月が黄色くて、迫るように大きくても、一晩だって外にいられるだろう。砂糖入りの熱い紅茶が、指の先まで体を温めている限り。
「月が消えたね。少し暗くなったかな?」
「さあな。街の灯りがあるから、よくわかんねえ」
「きっと暗いよ。良い月夜だよ」
 バスケットを退け、ジンは兄の耳元でそっと囁いた。「こんなに嬉しい満月の夜は、初めてだよ」
「でも、これから月は戻ってくるんだろ」
 ラグナがジンの方を向いたので、もう少しで唇が当たりそうだった。兄は挑発するように、口の端を釣り上げて笑う。瞳はからかうように笑んでいた。至近距離だから、そこにはもちろんジンしか映らない。ジンの瞳にも同様だった。互いしか見ていない兄弟を、消える月だって見ていない。
「いいよ、僕もう、兄さんしか見ていないもの」
「こら」
「だって」
 くすくすと笑いながら、兄の唇を食んだ。甘噛みして、引っ張ってから、唇で挟む。ちゃんとしろとばかりに兄がジンの唇をとらえて吸い付いたので、ジンも兄の首に手を回し、抱き寄せながら舌を入れた。
 空では月が上りながら、ゆっくりと輝きを取り戻していく。ラグナは月が戻る前に家に帰ろうと思っていたが、弟がどうやら平気な顔で自分の唇を貪ってくるので、言い出すのはやめにした。代わりに舌を差し出し、弟の髪を少しだけかき回した。水筒は魔法瓶なので、まだしばらくはこうしていても良いだろう。





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2014.11.01.
10月初旬に月蝕があったのでした。
月のない夜のお月見兄弟。