モンテカルロのエトワール・天城雪彦が来日するにあたり、その持ち物はごく僅かだった。クローゼット一つ分の衣服とハーレー・ダビッドソン、それからガウディ。たったそれだけ。彼にはそれしか必要ではなく、逆に言えば、彼はそれを間違いなく必要としていたと言える。
車好きな天城は、自分の愛車たちに名前を付けている。
ガウディの名前はヴェルデ・モト――― Verde motoとは、フランス語で直訳すれば「緑の車」という意味らしい。慣れない手付きで仏日辞書を繰り、その意味するところを突き止めたとき、世良は思わず笑ってしまった。そのまんま過ぎる。
対してハーレーに付けられた名前はマリツィア号。最初に聞いたときには、悪意を意味するマリーシアが語源かと思ったが、違った。マリツィアとは、モナコ公国の始祖の名前。そして現代の公位継承権第七位、天城の連れてきた若手建築家の名前でもある。
なぜ天城は愛用のハーレーに、その名前を付けたのか。
桜宮の街を疾走する、黒いハーレー・ダビッドソン。天城が自身の原則を破って手に入れた、フルスペックの特注品。特にエンジン音が気に入りの。
世良の記憶の中で、金髪碧眼のマリツィアが、底意地の悪い微笑を浮かべる。
急に胃の辺りがむかむかしてきた。この苛立ちをぶつけようにも、今日は出勤すらしていない天城が恨めしい。彼のお守役である世良は頻繁に彼の居場所を訊かれるが、そんなもの世良にもわからない。
彼が帰ってくれば電話で呼ばれる。帰ってこなければまた明日だ。そろそろ勤務時間が終了するというのに、看護師が受話器を片手に世良を呼ぶ気配はない。最後にカルテの記入を済ませ、世良は白衣を脱いで私服に着替えた。
その足で、旧教授室へと向かう。
主を失った暗い部屋に明かりをつけると、世良はその奥の机に向かい、大雑把な動きで椅子に腰を下ろすと、机に足を載せて組んだ。不敬で行儀の悪い格好だが、旧教授室を訪れるのは世良を除けば天城しかいないから、誰に見咎められる心配もない。一度やってみたかったのだ。少し溜飲が下がる。
革張りの椅子は適度に弾力があり、体は沈み込まず包まれるようで心地良い。天城の残した雰囲気が労働に耐えた世良の眠気を誘い、瞼が徐々に重たくなるのに任せた。フェイド・アウト。世良は意識を手放した。
次に目を開けたとき、まず目に入ったのは天井の電球ではなく、世良を覗き込む天城の顔だった。心臓が止まるかと思った。
「……っあ……ま、ぎ、せんせい」
「おはよう、ジュノ」
天城は楽しそうに笑った。「そんな姿勢でよく眠れたな」
慌てて机上から足を下ろし、立ち上がる。
「今お帰りになったんですか。というか、今、何時ですか」
「十時だよ。夜のね」
ボルサリーノを机に置いて、世良が温めていた椅子に天城が腰掛ける。その優雅な動作があってようやく、部屋はエルミタージュの様相を取り戻した。
所在なく椅子の横に突っ立っていると、世良の頬に天城の両手が伸びてくる。その腕に請われるまま、世良は右膝を椅子に載せた。片手を頬に置き、もう片方の手で世良の髪を撫でる、天城の微笑は無邪気だ。
「明日はジュノも連れて行ってあげよう。マリツィア号に乗って岬にでも」
「……ガウディだったら、いいですよ」
天城の表情を見下ろしながら、世良は表情を変えずに言った。ふうん、とやはり楽しげな天城。どこまで見通されているのやら。
「天城先生、もう車、貰う予定ないんですか」
「今のところ、ないね」
「そうですか」
「ジュノ。なんでハーレーにマリツィア号と名付けたのか、知りたいか?」
「――― いいえ」
硬い声で世良が答えるのに、天城はくつくつと喉の奥で笑う。
「じゃあこうしようか、ジュノ。スリジエ・ハートセンターが設立されたら、私は救急車に桜の印を付けるつもりでいる。その車をジュノと呼ぼう」
唐突な提案。天城の好きな桜の花で彩られた救急車を、次いでそれがジュノと呼ばれる様子を想像し、世良は溜息を吐いて、天城の髪に顔を埋めた。前髪の生え際からつむじの中間。何か香水でも付けているのか、いい匂いがした。
「……それは、ちょっと、御免です」
「そう?」
「俺は天城先生だからジュノと呼ばれているのであって、他の人にまでジュノと呼ばれたくは、ありませんから」
ジュノ――― 青二才。世界でただ一人の天才である天城だから、そう呼ばれるのに甘んじているのだ。輝かしい来歴に裏打ちされたマリツィアという名前には到底及ばないけれど、天城が呼ぶのなら、たとえその意味が青二才でも構わない。
「ジュノはときどき、すごいことを言うね」
頭から顔を離して天城の表情を伺うと、大きく開かれた瞳に見返される。表情豊かな人だ、と思い、世良は微笑んだ。
「そうですか?」
きょとんとした顔の天城に言ってやる。
「天城先生の影響ですかね」
世良の顔を見つめたまま、天城は二回だけ瞬きをした。
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2012.06.28.
マリツィアって本当、天城先生のなんなんでしょうね。