6.-interlude-





 実は何度か、琴宮を外で見かけたことはあった。
 一人のときもあったし、そうでないときもあった。美女を連れて歩いているのも、数回見かけた。しかも見る度に違う女性なのだから笑ってしまう。
 琴宮にとって恋愛など何の価値もないのだ。
 その事実を認めると、あっけないほど簡単に諦めがついた。相変わらず彼と話すのは楽しく、要の気持ちを満たしたが、友情の一線を超えようとは思わなかった。彼にとって愛情とは振り撒くものだとわかった以上、欲しがることに意味はないから。
 それでも彼に触れられれば鼓動が高鳴り、キスは快いのだから、肉体は正直だなと思う。
 そんなもの要らなかったのに。
 要は静かに溜息を吐いた。
 このまま時が過ぎるのをじっと待っていたかった。それはいつか琴宮が日本に帰る時かもしれないし、そうでないかもしれない。けれど琴宮が要の前から姿を消し、その空白に要が慣れるときが来るのを、いつまでも待っていたかった。
 このままでは忘れられないじゃないか。
 記憶の中の彼に恨み言を言った。実際に言ったら、彼はなんと答えるだろうか? そう考えそうになり、慌ててかぶりを振る。
 忘れよう。そのために、琴宮から離れたのだから。
 一ヶ月しか経っていない今はまだ、ふとした拍子に琴宮のことを思い出してしまう。自信家な名探偵は、その鷹揚な振る舞いに関わらず、話せば気さくでよく笑い、機知に富んだ会話は要を決して飽きさせない。要の手料理を美味しそうに食べ、オセロで負けては少しだけ不満気な顔をする男。
 もう、会うことはない。
 そう決めているのに、街を散歩しても、買い物をしていても、つい周りをきょろきょろと見てしまう自分がいるのに気付く。もしかしたら彼がいるのではないかと、未練がましいことこの上ない。
 あれ以来彼に会わないのは、幸か不幸か。
 これでいい、と楽譜をめくる。今日もオーケストラの練習だ。カナメ、と呼ぶ声に明るく答えた。
 こんな日には明るいワルツの指揮を執ろう。





○ ○ ○





 今まで付き合った女の数も名前も、琴宮は覚えていない。
 そもそも、付き合ったといえるような関係でもない。琴宮は美しいものを讃え、可憐なものを愛でているだけだ。それに付随する結果に価値はない。
 名探偵である琴宮にとって最も価値があるのは、事件を解決することだ。
 誰も気付いていない、闇に消えるのを待つばかりの真実を見付け出す。不可能犯罪を成功させたとほくそ笑む犯人の人生を懸けた挑戦を受けるその仕事に、琴宮は己の頭脳の全てを賭している。
 この国に来てから、もう何件もの事件を救った。そのいずれも琴宮にとっては他愛なく、大した障害もなく解決を迎えることが出来た。
 ただ一件、到着したときには解決されていた、国立音楽院での殺人事件を除いては。
 そして音野要のことを思い出す。琴宮より先に事件を解決したのも彼ならば、それ以来多くの時間を琴宮と共有したのも彼だ。
 要のことを思い出すときに、琴宮には必ず思い出す顔がある。彼が琴宮の部屋を訪ねてきた日に、ドアを閉めた直前のそれ。
 あのとき部屋にいた女の顔も思い出せないのに、要の顔は今でも簡単に思い出せた。寒かったのだろう、頬と鼻の頭を赤くして。見慣れた人懐っこい笑顔を浮かべていたのに、それを凍らせたのはいつのまにか付けられていたキスマーク。
 気付いていたら、自分はドアを開けなかっただろうか? あるいは、隠れるような服を着て応じただろうか? そうしたかもしれない。あの一瞬の、泣きそうな顔をさせないためなら。
 思えば彼はいつも微笑みを浮かべていた。人のよい柔和な顔立ち。洗練されて優雅な物腰。その一方で、案外子供っぽい一面も持っている。そして光の満ちる聖堂でタクトを振る彼の姿は、目を奪われるほど美しかった。観衆を求めない、一人きりの歌声も。
 久しぶりに、彼の笑顔が見たい。
 琴宮は安楽椅子から立ち上がり、コートを羽織った。
 要の笑顔が失われた理由も、自分がそれを覚えている理由も。もちろん、キスをした理由も。琴宮はもう知っている。
 だからそれを取り戻す方法も、きっと知っているはずだ。
 逸る気持ちは、外の冷たい空気が冷やしてくれるだろう。





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2012.04.27.