5.





 なんとなくもう会わないような気がしていたら、三日後買い物に行ったスーパーで、同じく買い物に来ていた要にばったりと会った。
 そもそも家が近いのだから、これまで外で会うことがなかったほうが不思議なくらいだ。
 要は驚いて目を見開いたが、すぐにその表情を柔らかい微笑に変えた。
「琴宮くんも買い物?」
「電球が切れてね」
「僕は夕飯の買い物。今日はポトフにしようと思って」
 要は言葉を切ると、じっと琴宮の目を見詰めた。
――― 来る?」
 君が良ければ、と琴宮は頷いた。





 キッチンからは、要が野菜を切るリズミカルな音が聞こえる。
「ポトフは具が大きい方が美味しい気がするっていうのが僕の持論なんだけど、琴宮くんはどう思う?」
「さあ。考えたこともなかったな」
「今考えてみて」
「そうかもしれないね」
 小さくよし、と聞こえる。
「手伝おうか?」
「大丈夫。お客様はどうぞおくつろぎください」
「悪いね」
「絶対思ってなさそうな声が聞こえる」
 くすくすと笑い声。暖かい部屋。団欒という言葉がよく似合う空間。要と一緒でないときにレストランで食事をする時間を思い出して、琴宮はふと微笑んだ。それは一人だったり、女性と一緒だったりしたけれど、こういう気安い居心地の良さとは縁遠いものだった。男同士で、しかも家だからだろうかと取り留めもなく考えていた。
 野菜を煮込んでいる間は、二人でオセロをして待った。いつも通りの雰囲気が心地よい。といっても、まだ初めて会ってから一月と少ししか経っていないのだけれど、この国で特にすることもない琴宮は、ほとんどの時間を要と共に過ごしているような気がしていた。オセロの結果は、今日は琴宮の勝ち。少しずつ勝率が上がってきて、要が悔しがるのが面白い。
 やがて、要がキッチンから鍋を持ってきた。取り分けたのを受け取ると、琴宮はいただきますと手を合わせる。召し上がれ、と要も続いて手を合わせた。要はなかなか料理上手で、何を食べても美味い。
「そういえば」
と、スプーンの上のニンジンをふうふうと冷まして、要が切り出す。
「この前の女の人って、やっぱり事件で知り合ったの? 名探偵さん」
「この前の?」
 聞き返すと、かえって要の方が怪訝そうに、
「この前、僕が君の家に行ったでしょう?」
「ああ」
 琴宮は頷いて、同じくスプーンの上で溶けそうなタマネギを口に運ぶ。
「いや、彼女は道で会ったんだ」
「えっ、ナンパ?」
「そう」
「へえ、意外。そんなに好みだったの?」
「美しいものは愛でるべきだろう?」
「ん?」
 琴宮の言葉に引っかかるものを感じて、要は首を傾げた。
「もしかして、しょっちゅうナンパしてるの?」
「しょっちゅう? どうかな」
「……こっちに来てから何人?」
 琴宮が思い出すように中空に目をやったので、要は深く溜息をつき、静かにスプーンを下ろした。真摯な目が琴宮を見詰める。つかの間の沈黙。
「そういうのはいけない」
 きっぱりとした声に、琴宮はスプーンを持つ手を止めた。
「女性は――― 人は大切に扱うべきだと思う」
「君のことは大事にしているつもりだけれど」
 琴宮は身を乗り出して要の手を取ると、音を立てて指先に口づけた。要が体を固くして、その手を僅かに引く。それに気付いて、琴宮は手を離した。
「……僕を大事にしても仕方がないでしょう」
 口づけされた手を、もう片方の手で要がかばう。
「そうかな。私は君が好きだよ」
「女の子と同じように? 違うでしょう」
 断言すると、要は優雅な動作でスプーンを手に取り、食事を再開した。この話はおしまい、とにこりと笑う。それに促されるようにして、琴宮も再開する。
 ポトフは少し冷めていた。





 琴宮が帰るときになると、要は下まで送るよと申し出た。それは恒例になっていて、コートをきっちりと着込んだ琴宮と、マフラーを引っ掛けただけの要は揃って階下に降りる。アパートを出て扉を閉めると辺りは静謐な夜の空気に包まれ、それに遠慮したように、要はぎこちなく「また会える?」と聞いた。それも、恒例。琴宮は苦笑する。
「いちいち聞かなくてもいいのに」
「だって君から電話くれたことないでしょう」
 拗ねるように言う要に、琴宮はふむと顎に手をやって思い返す。言われてみれば、そうかもしれない。
「では、今度は私から連絡しよう」
「本当? じゃあ待っていようかな」
 いまいち信じていなさそうな調子で要が微笑む。
「じゃあ」
と、琴宮は階段を一段下り、振り仰いだ。暗くて顔がよく見えないので、目を眇めて凝視する。ふと、三日前の要の顔が脳裏に甦った。息を呑み、強張らせていたその顔。全ての感情が張り詰めて、堪えているような、その顔。見えない表情が、もしかしたらそうなのではないかと。
「要」
 呼びかけて、要に向かって踏み出す。ん? と要が首を傾げて見返した。その表情が柔らかく笑んでいるのが、薄い闇越しに見える。
 ああ、いつもの彼だ。
 安心して、緩やかに息を漏らす。ゆっくりと、琴宮は要の頬に手を伸ばした。触れると、彼は微かに身動ぎをする。琴宮はその視線を受け止めて、距離を縮めた。
 近くで木々の葉が密やかに擦れ合い、その合間を縫って遠くから車のエンジン音が聞こえた。それと掌や唇から伝わる要の熱に、琴宮は目を閉じて集中していた。
 一度ゼロになった距離を再び戻すと、要の顔が近くではっきりと見える。目はしっかりと開いたまま、目尻に涙が溜まっていた。
「……どうして」
 搾り出すような声だった。
「どうしてキスするの?」
 琴宮から目を逸らして、要が聞いた。その口調がやや自嘲めいているのは気のせいか。答えられないでいると、要は深い溜息を吐いた。
「帰って」





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2012.04.12.
「いつもの」って言える関係って良いですよね。