4.
数日後、要が電話をかけてきた。
「今から家に来ない? 今日、暇なんだ」
「いいとも」
琴宮も暇をしていたところだったので二つ返事で向かうと、要がアパートの前で待っていた。薄手のセーターの上にコートを軽く羽織っているだけだ。
「君は待つのが好きなのか? そんな格好では風邪を引くぞ」
この前会ったときにも風邪の心配をしたことを思い返して、呆れてしまった。
「嫌いじゃないよ。それに、君は僕の部屋知らないでしょう?」
「二階の端の部屋だろう」
驚いた顔で見返してくるのは気持ちが良い。
「この前、君と別れた後に電気の付いた部屋はそこだけだった」
「さすが名探偵だなぁ」
要は感心したように微笑んだ。
招き入れられた部屋は清潔に片付けられ、適度な生活感がある。独身男性の一人暮らしにしては上出来の部類だ。
要はキッチンに入って少し声を大きくし、
「音楽院と提携してるアパートなんだ。他の住人もみんな学生で」
「防音なのか?」
琴宮はリビングに置かれたテーブルに座って、会話を続ける。テーブルの上には楽譜と筆記用具の他に、ガラス製のチェス盤が置いてあるが、チェス盤に重ねられた二つの小さな木製の箱はチェスの駒が入るサイズではない。
「うん。でも、みんな昼間は窓開けてやってるからあんまり意味ないかな。いつの間にかピアノとかフルートがアンサンブルしてたりして」
「楽しそうだな」
「指揮は混じれなくて寂しいよ?」
要がココアを淹れて戻ってくる。それを受け取ると、琴宮は
「チェスでもしよう」
と持ちかけた。
「あ、実はチェスの駒はないんだ。これはオセロ用で」
「オセロでも構わないが」
「そう? 琴宮くんはオセロ、強いの?」
「まあね。君は?」
「それはやってみてのお楽しみ」
不敵に微笑み、要はチェス盤を二人の間に置く。チェスもオセロも盤は8×8なので、同じ盤を使うのだ。
「先攻と後攻どっちがいい?」
「先攻」
名探偵に後手はありえないのだ。
「じゃあ黒ね」
渡された木製の箱には、ガラス製のオセロ石がしまってあった。反面が透明で、もう反面に透かし彫りがされている。盤に並べていくうちに、その模様がチェックやボーダー、ダイヤなど複数のパターンがあるのに気付いた。
「良い物だな」
石を盤に置くと、ガラス同士が触れ合って、カツン、と硬質な音がする。
「もらい物だよ。僕の指揮を気に入って下さってる方がいて、僕がオセロ好きだって知ってプレゼントしてくれたんだ」
要の置いた石が、盤上に白く長い直線を作り出す。
「ふうん、音楽家の青田買いか」
琴宮は焦らず着実に黒を増やした。美しいガラス細工が、部屋の明かりにきらりと輝く。
「そんなところだね」
要の置いた白は一つだけ黒をひっくり返して終わる。
話しながらも、二人ともオセロをする手は止めなかった。自分のターンには視線を盤上に巡らせ、最善の一手を探す。石を置くと気を緩め、相手に盤を譲る。
攻防戦の末、最後の一升に白石が置かれた。
面積は五分五分で、見ただけではどちらが勝ったか判別しにくい。数えると、白石が僅かに三枚多かった。要の勝ちだ。
「強いな」
素直に感心する。琴宮はこれでもオセロには自信のある方だったのだ。
「琴宮くんこそ。こんな僅差になったの初めて」
言いつつ、要は少し誇らしげだ。
「よし、もう一回やろう」
「お手柔らかに」
それから何度か、琴宮はその部屋を訪れた。
オセロをしたり、音楽を聞いたり。ただ二人でココアを飲みながら話す日もあった。夕飯を作りすぎたから食べに来ないか、と誘われたこともある。寒い季節にぴったりのクリームシチュー。ほのかに薫る白ワインが食欲をそそった。
学生である要は一日中空いているわけではないので、大抵夕方や夜に電話が来た。家に帰ってから電話しているのかと思っていたら、ある時車のクラクションが聞こえて驚いた。
「あ、うん。今帰り道」
要はあっけらかんと答えた。
「よそ見していたんだろう」
「今のは向こうが危ない運転してただけだよ」
「車に轢かれないように」
「はーい」
そんな風に会話の応酬を楽しみながら、時間の許す限り二人で話した。
そんなある日、琴宮の部屋を要が訪ねた。
とんとん、とノック音がしたのに気が付くと、琴宮は素早く身支度を整え、玄関に向かった。
「誰だ?」
「音野要です」
扉を開けると、要が立っていた。きちんと前で留められたコートと、手触りの良さそうな厚手のマフラー。いつもよりも重装備だ。
「琴宮くん、……」
出迎えた琴宮の姿を見て、呼びかけた要の声が不自然に途切れた。
髪は若干乱れ、服の着こなしもいつもよりルーズだった。何よりVネックのセーターから覗く鎖骨の下についた赤い鬱血が、その行為を雄弁に語っていた。
要は小さく息を呑み、
「……ごめん、お邪魔したみたいだね」
「何か用事があったのでは?」
「ううん。たまたま暇で、たまたま通りかかっただけだから」
「そうか」
「うん」
「じゃあ」
「うん」
また、と言い残し、扉を閉めた。
その扉の外で要がどんな顔をしていたか、琴宮は知らない。
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2012.03.08.
盤上の妖精と王様の手合わせ。
そして動き出す感じ。