3.
小さな教会だった。
重い扉を開けると、中からテノールの歌声が聞こえた。Joy to the world, the lord is come… 日本でもよく聞くクリスマスソングだ。タイトルは〈Joy to the world〉、日本語で〈もろびとこぞりて〉。
左右に十列ほど長椅子が並んでいる。左の真ん中ほどの長椅子に、音野要が座っていた。他に人のいない聖堂に、彼の歌声が満ちる。高窓のステンドグラスを介して差し込む光が、空気中の塵を煌めかせた。
声をかけるのが躊躇われた。
While fields and floods, rocks, hills and plains, repeat the sounding joy…
美しい歌だ。そう思った。
この季節になると日常的に聴く曲に、耳を澄ませたこともなかった。歌詞が耳に入るのは彼の歌だからか。下手ではないが、特別上手いわけでもない。けれど楽しそうだった。誰に聞かせるわけでもなく、ただ歌うのを楽しんでいた。
He rules the world with truth and grace, and makes the nations prove…
とにかく冷たい空気が中に入るのを防ごうと、扉を閉める。重い扉が、ぎぃと鳴いた。
歌が止まり、要が振り返る。
「琴宮くん!」
「やあ」
残念だな、と琴宮は心から思った。もう少し聞いていたかったのに。
要は気付かず、楽譜と指揮棒を持って立ち上がる。
「この裏に講堂があって、子供たちには先にそっちに行ってもらってるんだ」
「では待たせてしまったかな。すまない」
「全然」
琴宮はドアを開け、手で押さえて要を通してやる。ありがとう、と要は僅かに背の高い琴宮を見上げて微笑んだ。
聖歌隊の指揮は、要の在籍する国立音楽院の指揮科に代々伝わるボランティアなのだ、と講堂へ向かう道で要が説明した。
「今はクリスマスに向けての曲を練習中」
「さっき歌っていたのも?」
「あっ、聞いてたの? そうそう、〈もろびとこぞりて〉良いよね」
「君が歌うのは特に」
「あはは、ありがとう」
普通なら女性に向けられるような琴宮の言葉を要は軽く受け流し、
「クリスマスソングはどれも好きなんだ。歌うのも指揮するのも。みんな幸せになれそうで」
そう笑った。
講堂は教会よりも一回り小さく、質素な印象を受けた。扉は軽く、開けて入ると暖かい空気が二人を包んだ。それで初めて琴宮は、さっきの教会の中が寒かったのに気付いた。人を集めることが目的の空間だ、暖房器具くらいあるだろうに、すぐに琴宮が来ると思ってつけなかったのか。この指揮者の卵が風邪を引かなければいいのだが。
次いで、子供たちの声が二人を襲った。
「おそーい、カナメ!」
「いつまで待たせるんだよー!」
「その人だれえ?」
二十人くらいだろうか。年はいずれも十歳前後だろう。それから保護者が数人。髪は黒、茶、ブロンドなど色とりどり。二人を見つめる瞳も黒や茶や青と様々だった。
「ごめんごめん、お待たせ」
ドイツ語に切り替えて謝る要を、あっという間に子供たちが囲む。どうやら人気者らしい。子供たちが口々に話すのに笑顔で相槌を打つ要は指揮者というよりも小学校の先生のようだ。
「じゃあ練習初めようか。みんな並んでー」
号令をかけると、子供たちは一斉に講堂前方の、一段高くなった場所に整列する。この辺はさすが指揮者というべきか。その様子を満足気に見た要は、
「あ、そうだ琴宮くん」
と、やはりドイツ語で振り返った。
「なんだい?」
「これ、君の分」
笑顔付きで、先程から持っていた楽譜の半分を渡される。
「せっかくだから、君も歌お?」
「私も?」
「どうしても嫌だって言うなら、強要はしないけど……」
普段そんな顔を微塵も見せないくせに少し悲しそうな顔で言うものだから、つい頷いてしまった。
「まあ、いいだろう」
「ありがとう!」
ぱあっ、と途端に要の顔が明るくなる。
「みんなー! 彼は僕の友達の琴宮くん。今日は一緒に歌ってくれるから仲良くしてねー!」
子供たちがはーい、と返事をする。琴宮は苦笑して「はじめまして、名探偵琴宮です」と自己紹介し、彼らの列の端に加わった。
隣の少女が聞く。
「キング?」
「琴宮」
一応訂正したが、その微妙な長音は西欧人には伝わりにくい。少女はやはり首をひねって、
「キングは王様じゃなくて、ホームズやポワロみたいな名探偵なの?」
「そう。よく知ってるね」
「私も将来名探偵になりたいの」
はにかんで言う少女は、十年もすれば美しい女になるだろう。
「名探偵のお嫁さんになら、してあげるよ」
琴宮が言うと、少女は照れて俯いてしまった。
「今日は〈Joy to the world〉からいくよー!」
要が指揮棒を上げる。少女が慌てて楽譜を開く。琴宮も楽譜を開いたが、視線を感じて顔を上げると、要の視線とかち合った。
少し責めるような。
少女を口説いたことを怒っているのだろうか。とりあえずウインクでごまかしておいた。要は呆れたように溜息を吐いて、気を取り直すように指揮棒を軽く振った。
「じゃあ、最初からね」
保護者の一人がピアノの前に座り、旋律を奏で始める。
Joy to the world, the lord is come…
要の指揮に合わせ、子供たちが歌い出す。琴宮も楽譜に目を通して音階を把握すると、周りの声に合わせて歌い始めた。
Let every heart prepare Him room…
おや、と要が琴宮を見た。再びウインクしてみると、今度はウインクが返ってきた。
一曲歌い終えてピアノが止まると、要が拍手をしながら
「うん、この前より良くなったね! みんなお家で練習したのかな? 偉いなあ。えーっと、二回目のRepeat the sounding joyからもう一度。一回目とは音が違うから気をつけてね」
この調子で次々と〈Jingle Bells〉、〈Rudolph The Red-Nosed Reindeer〉などのクリスマスソングを歌っていく。一曲歌っては要が修正し、何度も繰り返すものだから琴宮は次第に飽きてきた。
それを助けるように、一二時を告げる教会の鐘が鳴った。
「じゃあ、今日はこれでおしまい」
要が解散を告げると、子供たちがまた要の傍に集まる。最初と違うのは、それが二手に別れて琴宮の方にも来たことだ。一緒に歌ったおかげで仲間と見なされたのだろう。
「キングも日本人?」
「ねえねえキング、名探偵って何してるのー?」
順番なんて気にせず問い詰める子供たちの一人ひとりに答えてやる。やがて一人、二人、と友達同士で、あるいは保護者と共に帰っていく。最後の集団を見送ると、二人は大きな溜息を吐いた。
要がにこりと笑った。
「歌、上手じゃないか」
「君の指揮も上手かったよ」
「一応プロですから」
自分で言いながら、照れたように笑う要。
「いつもこんな感じなのかね?」
「うん。もう、みんな元気で、すごいよね。……ところで琴宮くんさあ、エマのこと口説いてたでしょう」
んー? と要が琴宮の顔を覗き込む。エマとはさっきの少女のことだろう。
「あれは口説いたうちに入らない」
「この色男め」
ぐりぐりと要が肘を押し付ける。ようやくわかってきたのだが、この男は常にテンションが高い。飽きて離れるのを待って、
「ところで、指揮棒は要らないんじゃないのか?」
「ばれたか」
要はいたずらっぽく笑って、
「だって、指揮棒がある方がそれっぽいでしょ?」
つられて琴宮も笑う。楽譜を返すと、要はそれをまとめて鞄に入れ、
「ねえ、午後も空いてる? ご飯食べよう」
「いいとも。どこへ行こうか」
「いいところがある」
ふっふっふ、と怪しく笑みを漏らした要に、首をひねりながらも琴宮はついて行くことにした。
連れていかれたのは音楽院の学生食堂。ガレットが特においしいと薦めるのに従って注文すると、確かにおいしい。それを伝えると、要は満足げに鼻を鳴らした。
「琴宮くん、まだ時間ある?」
人好きのするその笑顔に連れられて、琴宮はウィーンの街を歩き回った。
本屋、CDショップ、楽器屋、公園、美術館……。
普段遊んでいないのか? と思うほど、要ははしゃいでいた。最も、これが彼の常態なのだと言われても驚かないけれど。
「はー、楽しかった!」
要が満足げに言う頃には、すっかり夜が暮れていた。
「連れ回しちゃってごめんね」
「構わない。しかし、普段遊べないわけではないんだろう?」
「うん」
要は首を振って否定した。
「でも、琴宮くんといると楽しくて」
「それは光栄だ。――もう帰るだろう? 家まで送ろう」
「そんな、悪いよ」
「どうせ私の家の近くだろう」
要は渋ったが、琴宮が強引に押し切った。
要の誘導に従い歩いて行くと、先に琴宮の借りているアパートの前を通りかかったので、それを教える。そこから十分ほど歩いた川べりの小さなアパートが、要の家だった。
「今日は一日ありがとう」
石段を上って、アパートの扉の前で要が振り向いた。
「こちらこそ。君のおかげで有意義な一日だった」
「また会える?」
琴宮は名刺を出して裏に電話番号を書くと、それを渡した。
「ありがとう」
要は両手で名刺を受け取って微笑むと、琴宮の体に両手を回した。
友情のハグ。
琴宮が抱きしめ返すのを待たず、その体はすっと離れた。
「ばいばい、またね」
扉の向こうに消える笑顔に、琴宮は軽く手を振って応えた。
-----------------------------------------------------------------
2012.02.04.
要さんの指揮する聖歌隊の歌を聞きに行く琴宮さん。
ちょっとずつ距離が近くなっていく感じ。