2.
オーストリアの秋晴れに、石造りの建造物が映える。道行く人の靴が軽やかに煉瓦を叩き、話し声が乾いた空気を渡っていく。暑かった夏が過ぎ、秋の訪れを感じ始める十月。友人とのお喋りが楽しくて仕方がないといった様子で、学校帰りだろう小学生達が跳ねるようにして雑踏を駆け抜ける。オープンカフェので一人コーヒーを飲みながら、琴宮は行き交う人々を眺めていた。
彼がこの国に来たのは、新聞の記事から、ある名家の当主の死亡が殺人事件であると見抜いたためだった。屋敷を訪ねて第二の殺人を防ぎ、三千万の解決料も支払われた今、日本に帰ってもいいのだが、琴宮はもう少しこの土地に留まることにした。
なにしろ過ごしやすい。気候は穏やかで初秋の今頃は風もまだ暖かく、景観は美しい。英語もドイツ語もできる琴宮にとって、言葉の面での不便もない。それに、彼の名探偵業に土地柄はあまり関係がない。依頼を受けて動き出すよりも、新聞やふと耳にした会話から犯罪の匂いを嗅ぎ分け、当事者達も気付いていない事件を解決するのが琴宮のスタイルだからだ。
今ものんびりとコーヒーを飲んでいるようで、彼は人々を注意深く観察している。
「琴宮さん」
日本語で呼びかけられて視線を上げると、人懐っこいくりっとした瞳が彼を見詰めた。
「またお会いしましたね。音野要です。ここ、座ってもいいですか?」
彼はそう言ってにこりと笑った。
音野要。琴宮にとっては忘れられない名前だ。一週間前、ある事件の依頼を受けて向かった先で、琴宮が来るまでのたった一時間で鮮やかに解決していたのが彼なのだから。
「どうぞ」
琴宮はコーヒーカップをソーサラーに戻しながら、もう片方の手で向かいの席を示した。肩にかけていた鞄を椅子の背凭れに引っ掛けて、要が座る。
この前会ったときには事件のことしか話していないので、互いの素性はほとんど何も知らない。連絡先も交換しなかったので、琴宮の方では再び会うことになるとは思っていなかったというのが本音だ。
しかし、もう一度会えたのもなにかの縁というものだろう。
要は琴宮の方に身を乗り出すと、口元に手を当てて小声で、
「今って名探偵業の最中だったりしませんか?」
応える琴宮も自然と声をひそめ、要の方に身を乗り出す。
「名探偵業って?」
「ええと、張り込みとか。僕、ホームズとか乱歩とかが好きな子供だったんです」
「私も好きだよ。だが名探偵は張り込みなんてしない。それは探偵の仕事だからね」
「なるほど。勉強になります」
ウェイターが来たので、要は体を起こすとコーヒーを注文した。彼が去るのを待って、琴宮も元の声量で尋ね返す。
「先日の推理は見事だった。君は名探偵にならないのかい?」
「僕なんかなれませんよ。僕は昔から元気だけが取り柄なので、指揮者になろうと思います」
冗談とも本気ともつかない表情で言う。元気だけが取り柄だから指揮者というのもよくわからない理屈だ。
「なので、これから音楽院でオーケストラの指揮をしてきます。今日は練習なんですけど」
「寄り道して良いのかい?」
「まだ時間はあります。それに、名探偵に興味があって」
ふふっと笑って、要は指を組む。長い指だな、と琴宮は思った。意外と骨ばって、爪の切り揃えられた清潔な指先だ。
「音楽院はあっちでしょう? で、僕の家はあっち」
と、彼は道の左右を交互に指さした。
「通り過ぎようとしたらあなたの姿を見かけたものだから、つい声をかけちゃいました」
「では、その鞄の中身は楽譜だね」
「さすが、鋭いですね! その通りです。今日はシュトラウスなんです。ヨハンのほう。『クラップフェンの森で』って曲、知ってます? 笛を吹くんですよ、鳥の鳴き声を真似て。それが面白くって、僕この曲大好きなんです。本当は『トリッチ・トラッチ・ポルカ』もやりたかったんですけど、他の曲が決まっているから時間がないって」
口を挟む間もなく話す要は心底楽しそうだ。先程のウェイターがコーヒーを持って戻ってきたので、話すのを止めて角砂糖を二つ入れてかき混ぜ、細い取っ手に指を絡めて持ち上げる。
「悪いけど、私はあまり音楽は詳しくないんだ」
「わからなくても楽しめるのが音楽のいいところです」
にこりと笑う。きっと彼は指揮者として大成するだろう、と予感させる笑顔だった。彼ならば充分名探偵として通用する実力があるので、少しもったいない気もする。
「僕の家は音楽一家なんです。父がトランペット、母がフルート。弟はピアノ」
「弟がいるのか」
「ええ、五歳違いの可愛い弟です。今は日本で高校生をしている筈です」
五歳違いの弟が高校生? となると、要の年齢もおのずと絞られてくる。
「僕は今年で二十二です」
琴宮は二十三だ。それを伝えると、要は大袈裟ともとれる様子で驚き、
「落ち着いているので、もっと年上だと思ってました」
「私も、君はもう少し年下だと思っていた」
発育の良い欧米人の中に混じると日本人は幼く見えるというのもあって、ハイティーンか、それを一年過ぎた程度だと思っていた。
二人で顔を見合わせて笑う。
「じゃあ、敬語はやめよう。琴宮くんでいい? 僕のことは要って呼んで」
「いいだろう。要。ところでまだ行かなくていいのか?」
日が傾いて、先程まで暖かかったこの場所も建物の陰に隠れて涼しくなってきた。要ははっとして手元に視線を下ろし、腕時計の盤を確認すると安心した表情を見せた。
「良かった、まだ大丈夫。でも、そろそろ行くね。あ、これ、お勘定」
コーヒー代の硬貨を置いて立ち上がり、鞄を肩にかける。これから向かう路地の先に視線をやってから、彼はこちらを向き直った。
「また会える?」
琴宮はゆっくりと鷹揚に頷いてみせる。
「君がそう望むなら」
それを聞くと要はぱっと顔を輝かせ、
「じゃあ、来週の日曜日は空いてる?」
「これと言って予定はない」
「良かった。今、ボランティアで教会の聖歌隊の指揮もしてるんだ。聞きに来ない?」
「いいよ。私も、指揮者には興味がある」
琴宮の返事に要はにこりと微笑み、鞄からボールペンを取り出すと、テーブルの上に置かれたレシートの裏にさらさらと地図を描いていく。
「教会はここ。時間は十時からお昼くらいまで。僕の携帯電話の番号も書いておいたから、何かあったら連絡をくれるかな」
「ありがとう。きっと行こう」
「楽しみだな。またね」
要はにこにこ笑いながら手を振って、小走りに道の向こうに去っていく。その後ろ姿を見送って、琴宮もカフェを出た。
しばらく退屈しなくて済みそうだ。
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2012.01.29.
1の続き、出会った一週間後の話です。
わかりにくい構成でごめんなさい。
まだまだ続きます。