リリン、と鳴った電話の音が、部屋に満ちた昼下がりの空気を震わせた。安楽椅子にその身を埋めるようにして微睡んでいた琴宮は、三回目のコールが鳴るまでに立ち上がり、その受話器を取った。
「琴宮だ。……ほう、なるほど。ところで、私の解決料については知っているだろうね? ……よろしい。では、今から伺おう」
受話器をクレイドルに戻す。ふむと納得したように声を漏らすと、琴宮はベストと蝶ネクタイを身に付けた。
オーストリアの空はからりと晴れている。アパートのドアを開けると、どこからか焼きたてのパンの香りがした。
[ それを君は愛と呼ぶのさ / 琴要 ]
「え、事件ですか? もう解決しちゃいました」
事件の解決に来たという琴宮の言葉に、栗色の髪によく似合う、ダークブラウンのセーターを着たその男はこともなげに答えた。
琴宮が向かったのは、ウィーン国立音楽大学の講堂。その生徒達によるオーケストラが合奏していた際に、ホルン奏者が突然倒れ、そのまま死んでしまったのだという。彼の体内からは即効性の毒物の反応があった。にも関わらず、そのとき彼らは協奏曲を第一楽章から最終楽章まで通しで演奏していて、彼が倒れたのはその終盤知近くになってのことだったらしい。つまり、合奏の間誰も彼に毒を飲ませることは不可能な状況だったのだ。
この謎の解決を依頼するために琴宮の元に電話してきたのは、死んでしまった彼の隣に座っていたホルン奏者だった。関係者の誰もが気付かない真実に気付く琴宮が依頼を受けて事件解決に乗り出すことは稀だったが、聞いてみれば、先日事件を解決してやった富豪の親戚だと言う。その繋がりで琴宮の名を聞いて、今回すぐに電話してきたのだろう。
ところが現場に到着し、適当に目に入った男を呼び止めて聞いてみたら、事件はもう解決したと言う。事件発生から、おそらくは1時間も経っていないはずだ。琴宮は平静を努めて聞いた。
「……解決した?」
「はい、僕が」
「君が?」
「ええ。あ、僕は音野要っていいます。日本人です。あなたも日本人ですよね? 日本語で話しても大丈夫?」
それまで、琴宮と要はオーストリアの公用語であるドイツ語を話していた。
「いいとも。私は琴宮だ」
琴宮は日本語に切り替えた。
「事件の話を聞かせてくれるかね?」
「ええ、いいでしょう。それが……」
彼は上手に話を整理しながら、まず事件の概要を、そして彼の推理について語った。淀みなく語られるその内容に、どうやら矛盾はない。犯人であると推理したファゴット奏者が犯行を自供したことからも、彼の推理の正しさは証明されていた。
「なるほどね」
全てを聞き終え、琴宮が頷いたときだった。琴宮が到着していたことにやっと気がついたらしく、依頼人が慌てた様子で駆けてきた。
「もう解決したそうだね」
「は、はい。そうなんです。せっかく来て頂いたのに、申し訳ありません」
彼はしきりに恐縮していたが、その横で要が目を輝かせた。
「じゃあ、あなたが名探偵さん? わあ、ぜひお会いしたいと思っていたんですよ! 名探偵にお会いできるなんて光栄です」
「どうぞお見知りおきを。名探偵音野要くん」
「え?」
琴宮の言葉に、要は首を傾げた。琴宮の差し出した右手が、少しの間宙に浮く。
「いいえ、僕は名探偵じゃなくて、指揮者の卵の音野要です。以後お見知りおきを」
彼はにこりと笑って、琴宮の手を握り返した。
○ ○ ○
今日のドイツ国立楽団のコンサートも、盛況の内に幕を下ろした。三日間のコンサートは体力との勝負でもある。無事に終わって胸を撫で下ろし、オーケストラの仲間達とコンサートの成功を労い合っていると、スタッフの一人が要に声をかけた。
「カナメ、楽屋に人が来てるって」
ピンときた。ありがとうと礼を言って、要は楽屋へと足を向けた。壇上での興奮がまだ冷めず、かなり高揚した気分だった。
扉を開けると、突然視界が白に覆われる。驚いてピントをずらすと、それらは薔薇の集合体だった。白い薔薇の花束。かぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。
「コンサート成功おめでとう」
花束の向こうの見慣れた顔が言った。
「琴宮くん!」
要は花束を受け取って、もう片方の手で琴宮とハグをする。ずっと花束を持っていたのか、琴宮からは薔薇の香りがした。
「久しぶりだね! わざわざ来てくれるなんて一体どうしたの? びっくりしたよ。言ってくれたらチケットを用意したのに」
「そしたら驚かせられないだろう?」
琴宮は肩をすくめた。要もイタズラ好きで知られる方だが、琴宮もそれなりだ。彼はふらりと現れてはヨーロッパ各地で行われる要のコンサートを聴き、後日手紙でその感想を知らせてくることすらある。彼の活動拠点がどこにあるのか、十年近くになる長い付き合いを経ても、未だに要はよく知らない。
「良かったよ」
柔らかく微笑んだ琴宮が短く発したその言葉が自分のコンサートへ向けたものだと気付き、要もにこりと笑った。
「ありがとう。君に言われるのが誰より嬉しい」
「みんなにそう言って回ってるんだろう」
琴宮がニヤリと笑うので、冗談で言っているのだとわかる。
「いいえ、君だけ」
要もにこやかに返した。
「そういえば、僕の弟と会ったんだってね。白瀬くんから聞いたよ」
要の弟、音野順は、琴宮と同じく名探偵だ。もともと自分の殻に閉じこもり気味で、大学を出たのを機に本格的に引きこもるようになってしまった彼を、名探偵にしてくれたのが白瀬白夜。順の名探偵としての活躍を書いてくれる推理小説家であり、順の助手でもあるという。世界的な指揮者で、それなりに忙しい身である要はなかなか弟の様子を知ることができないので、先日帰国した際に会った彼とメールアドレスを交換し、近況を教えてくれるようお願いしたのだ。
その白瀬によると、順は最近ある屋敷で起こった殺人事件の謎を解いたらしい。しかもそれだけではなく、名探偵と推理対決をして華々しい勝利を納めたという。実を言うと、その名探偵が琴宮であると聞いてから、要は彼が訪ねてくれるのを今か今かと心待ちにしていたのだ。
「ああ」
琴宮は短く、鷹揚に頷いた。彼の所作の一つ一つに名探偵らしい風格が感じられたと白瀬が言っていたが、その通りだと改めて要は思った。王者の自信とでも言うのだろうか。同じ名探偵でも、順と比べると大分違うな、と要はくすりと笑った。
「どうだった? 僕の弟の名探偵っぷりは」
「素晴らしかった。助手の白瀬くんが彼に大きな信頼を寄せるのもわかるな」
「でしょう? だって僕の弟だもの」
要はいたずらっぽく笑った。順が名探偵をしていると知ってから琴宮には何度も自慢していたが、こうして実際に会って認めてもらうと更に嬉しい。
二人共立ったままで話しているのに気づいて、要はソファを薦めた。琴宮はソファに腰を降ろすと、大仰な動作で長い足を組む。
「名探偵の血筋とでも言いたいのかね?」
「まさか。僕は名探偵じゃないしね」
昔は自分の後をついてくるばかりだった順が、立派に成長したことが誇らしかった。彼が名探偵になったのは、純粋に彼の才能の賜物だ。才能があるにも関わらず音楽の道に進むことをしなかった彼が、今度は自分の才能に従って名探偵をしているということが要には嬉しかった。
「最近は何か面白い事件を解決したの?」
「ああ。聞きたいか?」
「聞きたいな」
「では夕食に行こう」
琴宮がまた大きな動作で足を戻し、勢い良く立ち上がった。長身の彼が立ち上がると、それだけで風が動く。
「これから?」
要は呆れたような、面白がるような顔で答えた。
「これからだ」
「コンサートが終わったばかりでへとへとだよ」
座ったまま上目遣いで見つめると、琴宮はふんと鼻を鳴らした。こんな子供っぽい冗談には付き合わないということらしい。ちょっとからかってみただけなのに、つれないものだ。
「フランス料理は嫌だな」
「知っているとも。寿司でいいだろう?」
どうやら予約してくれているらしい。さすがだなあ、と惚れぼれする気持ちで要はいいよと答えた。
「それから」
着替えようとする要に気を遣って部屋を出ようとし、琴宮は振り返った。
「送り迎えはなし」
OK, darling. と要は笑った。
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2012.01.20.
琴宮さん×要さん。琴要琴です。
捏造万歳。
出会い編と原作補完編を一度にやろうとするとこういうことになります。
原作補完:琴宮さんの「名探偵界隈」=要さん。という妄想です。
支部で反応頂けたので、また書こうかなと思います。