なくて七癖とはよく言ったもので、私にも無意識にやってしまう悪癖がある。その一つが爪を噛んでしまうことで、原稿中などは気付くと爪の白い部分がなくなってしまうこともよくある。
 その日も、突然押しかけてきたメルがいる横で私はパソコンに向かってせっせと原稿を書いていた。メルはただ単に暇だから遊びに来ただけなのだが、ずっとパソコンに向かったきり構ってやれないのは申し訳なく思っていた。しかし、ごく稀にしか舞い降りてくれないアイデアの神様が、昨日昼寝から目覚めた私の前に現れたのだ。一も二もなく書き始め、一晩明けて今はナチュラルハイの状態で書き続けている。後で冷静になればいろいろと推敲の余地はあるだろうが、とにかくこの状態の内に書けるところまで書いてしまいたかった。
 勝手に家に入って来たメルは私の状態を見ると大人しく座って本を読み始めた。それだけ私の様子が鬼気迫っていたのだろう。普段だったら絶対に自分では淹れないコーヒーを、しかも私の分まで用意したのだから、今日のメルは機嫌がいいか、よっぽど暇なのかもしれない。構ってやれず申し訳ない。でももう少しでいいところにいけそうなのだ。私は夢中でキーボードを叩いていた。コーヒーは冷めてしまったかもしれない。
「美袋くん、爪切りどこだい」
「え、あーっと、その机の横の薬箱に……って、え、爪切り?」
「はい、手出して」
 言うなり、メルが私の手をキーボードから剥がした。
「えっ?」
 私の膝の上にティッシュペーパーを敷き、メルはその上に私の右手をかざす。
「爪切り? なんでいきなり……」
「君、爪ぼろぼろだよ。無意識に噛んでるのか?」
 メルは大袈裟に顔をしかめる。確かに爪は大部分がリアス式海岸のようになっていたが、別に血が出ているわけでもなく、私にしてみたら大したことはない。メルだって私の悪癖をずっと前から知っているくせに、今日に限ってそんなことを言うだなんてどうせ退屈したのに違いない。
 ずっと放っておいて申し訳なかったことだし、そろそろ付き合ってやろう。
 私が大人しく手を預けると、メルは嬉々とした表情で、輪郭ががたがたになったところに爪切りを当てる。ぱちん。痛みはない。ぱちん。爪の先が少しずつ楕円の輪郭になっていく。
「こっちも」
 言われるがままに左手も差し出す。爪を切るメルの顔はいつになく真剣で、ついついじっと見つめてしまう。手元を凝視するために前屈みになったメルの頭がすぐ近くに見える。いつもシルクハットを被っているメルのつむじを見る機会などそうそうない。顔だけではなくつむじまで綺麗な形をしているのだから、いっそのこと清々しい気持ちになってくる。
 しかし自分の爪を切っているのがあのメルカトル鮎だと思うと少しばかり恐ろしい。死体まで蹴る男だ。切り損ねても大丈夫な白い部分があまりないのだから、預けている手にも緊張が走る。二人して体を硬くしているのだから、客観的に見るとちょっと面白い絵面だったのではなかろうか。
 全ての爪を切り終える。これで終わりかと思って手を戻そうとすると、メルがそれを拒むようにぎゅっと手を握った。爪切りを裏返し、今度はやすりの部分を爪に当てる。
「……こんなに短い爪で意味あるかな」
「なくはないだろう」
 明言を避けるので、単に自分がしたいだけなのだとわかる。メルの爪がいつも綺麗な楕円形なのは、自分でやすりをかけているんだろう。爪切りについている小さなやすりではなくて、それ専用のものを使っているのかもしれない。銘探偵は信用商売だから身嗜みには気を遣わねばならないと、いつだったか言っていた。彼が非日常の権化のようなタキシードをユニフォームに選んだのは、一方で紳士的な印象も与えるからかもしれないな、とぼんやり思う。多分違うのだろうが。どうやら眠気のせいか、いつにもまして頭の回転が遅い。
 ざり、ざりと耳慣れないかすかな音と触感で少しずつ爪が削れ、爪切りでも直しきれなかった僅かな歪みを矯正する。これもメルは真剣で、私の手を持ち上げて自分の顔に近くしてやっている。自分でもろくに注意して見ない手の先を凝視されるのは恥ずかしい。メルのように美しい手をした人に見られるのは尚更だ。
「メル、終わった?」
 メルは不満そうに唇を突き出した。
「光沢がない。マニキュア塗るか?」
「いい!」
 メルが突然わけのわからないことを言い出すのはいつものことだったので、私はあまり動揺せずに答えた。異性の目を気にして爪に色まで塗る女子ならとにかく、僕は男だ。光沢を出す必要なんてないだろう。逆に考えると、メルは普段そこまでしているのか……?
 メルは私の爪を包んだティッシュをぽいとゴミ箱に捨てながら答える。
「私もそこまではしないよ。昭子くんには勧められるが」
「あ、へえ、そうなんだ……」
 彼の秘書の意外な一面だった。
 メルが私の両手を持ち上げて、出来を確かめるようにしげしげと眺める。さすがにもう終わりだろう、と私は声をかけた。
「ありがとう、メル。自分じゃ滅多に爪切りしないからさ」
「ん? ああ、うん」
 珍しく生返事をして、メルは尚もじっと私の手を見つめる。どうしたのかなと思って私もじっと見ていると、いきなりメルが私の右手の人差し指を口に含んだ。
「……!?」
 私の驚愕などどこ吹く風で、メルはゆっくりと指に舌を這わせる。
 舌と上下の歯、全てを使っての愛撫。まるでふやかせるのが目的のように、ねっとりとした感触が指を這う。対象を中指に移動する際に、指の付け根に舌を這わせ、吸った。
「……んっ」
 メルが目線を上げ、ちらりとこちらを見た。「気持ち良かったか?」そう言わんばかりの視線に、かっと体が熱くなった。
「メル」
「うん……」
 応答とも吐息ともつかない声と共に、ぺろりと赤い舌が覗いては私の指に絡みつく。
「おい」
「……」
「なあ……メル」
「……」
 メルは私の話なんか聞かないよとばかりにひたすらに指を舐めている。ささくれの痕にメルの唾液が沁みる痛みすら甘美だ。今脳内を駆け巡っているのはエンドルフィンだろうかアドレナリンだろうか。ミステリを書くために読んだ付け焼刃の知識をふいに思い出す。多分どちらもだ。耐え難い快楽と征服欲。ああこのまま押し倒してしまいたい。
 赤い舌が私の手を蹂躙していく。五指の先は既に生暖かい唾液で光っている。親指と人差し指の間の皮膚にしゃぶりつかれ、歯と舌で揉みしだくように食まれる。メルの口内と私の手の間で唾液が立てるくちゅくちゅという音が淫らに響く。
 もうこれ以上は――― 限界だ。
「メル、ごめんっ」
 振り放すように手を引き寄せ、呆気にとられた顔のメルにもう一度「ごめん」と言って、
「でも、もう、限界」
「え」
 私は立ち上がり、駄目押しのようにごめんと呟いて、寝室へと足を向けた。
 限界だ。眠い。昨日から起きて、もう二十時間近くになるだろうか……? 学生時代ならとにかく、もう若くないのだ。パソコンに向き合い続けた眼精疲労と相まって、私の身体は休息を訴えていた。頭が痛いし、瞼が下がる。メルを抱きたい。でも、とてもそんなことができる状態ではないと身体が言っている。こんなの蛇の生殺しだ。
 ああ、そうだ。良い事を思いついた。
「メル、一緒に寝る?」
 寝室の前で振り返ると、メルは私のパソコンの前で立ち尽くしたまま、「帰る」と憮然とした顔で言い放った。
 ……起きたら彼の機嫌の直し方を教えてくれる神様に会えますように。





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2012.01.12.
爪切り美メル。
ノスタルジアで美袋くんを呼び出したメルは絶対に構ってちゃんだと思います。
後日美袋くんはメルの事務所で一時間土下座の後仕切りなおしです。