※R-18
※彦田だけど速田を含みます。
※女性モブと彦根の性行為描写が出てきます。
目が覚めると辺りは暗くなっていて、何も見えないものだから、瞼を開けたのも夢の中の出来事のように感じた。しばらくすると机や椅子の輪郭がうっすらと見えるようになってきて、それと同時に頭の中の靄も晴れて前後の様子がはっきりしてきた。眠っている内に、夜になったのだ。
授業を抜け出して、校舎の使われていない一角に忍び込んだのは夕方のことだった。夏が最後の力を振り絞った陽射しを秋の訪れを告げる風が中和するのが心地よく、窓際で目を閉じたのが最後の記憶だ。
そろりと体を起こす。静かな構内では僅かな音を立てるのも憚られ、慎重に足を進めた。忍び込んだときと同様、扉は音もなく開き、廊下の暗闇に田口を迎えた。腕の時計は見えなかったから、時間はわからない。人気がないのと、空の高いところに月があるのとから、漠然と深夜近くだろうと思った。
校舎にはもう誰もいないだろう。普段は人通りの絶えない広い廊下をたった一人で歩くのは愉快で、また寝坊してもいいかななんて考えている。鼻歌を歌っても、廊下の真ん中でダンスをしてもいい。そのどちらも下手くそでも、誰にからかわれることもない。一緒に馬鹿になって騒いでくれる友人がいないのは残念だが、それはそれで仕方ない。田口は靴の爪先を軸にして、くるりと回った。踊り方など知らないけれど、気分だけ。夜を抱いてワルツを踊ろう。
暗闇の中で苦笑する。速水ならきっと様になるが、自分にはちょっと似合わない。普段ならこんなこと絶対にしないのに、気分が大きくなっている。
こうなったら夜の校舎をとことん満喫してやろう。階段を上へと登り、時折教室を覗きこむと、机と椅子が整然と並び、黒板もホワイトボードも部屋の隅でじっとしているのが面白い。人がいないだけでこうも変わるものなのか、それとも陽光のないのが原因か、と考えながら、また扉についた小さなガラス窓から部屋の中をひょいと覗く。そんなことを気ままに続けた。
眠っていた最初の部屋を出てから、そう時間は経っていないだろう。四階の最奥の部屋を覗いた田口は、ぎょっとして顔を強張らせた。
教室は小さく、机と椅子は一人用のセットであるため、印象は大学というよりも中学校のそれに近い。覗いた小窓の直線上には窓があり、カーテンは外されているから空が見える。その間に位置する一番後ろの窓際の机の上に人が座り、その正面にももう一人立っていた。月光と遠い市街の光の助けを借りて、田口の目にはそれが女性と男性であることがわかった。二人が深く唇を合わせていることも。
大変なところに出くわしてしまった。
すぐにこの場を離れなければ、それも気付かれないように、と後ずさりしかけた瞬間にか細く鳴いた女性の声に、田口の足は硬直した。驚きや焦りが綯い交ぜになり、視線を逸らすこともできないままにくちづけは続き、男性は女性のふくよかな胸にも唇を寄せる。また、高く短い声が鳴いた。思わず唾を飲むと、闇の中で、田口の白い喉仏が大きく動く。ごくり。
まさかそれが聞こえたわけでもあるまい。けれど何の前触れもなく、男性は顔を上げて扉に向けた。視線は躊躇いなく小窓を透過し、田口の存在を突き止めた。
目が合った、と思った。
扉の向こうの男は田口と目を合わせたまま、女性へ愛撫を続ける。その双眸を覆う眼鏡の、銀色のフレームが光る。女が鳴き、男の口が笑う。三日月のようにうっすらと。
体の芯がかっと熱くなった。続いて水を浴びせたように冷える。思わず後ずさった足が動いて硬直が解けたのを知り、田口は一目散に走り出した。足がもつれ、転ぶまで脇目もふらずに走った。息が切れ、膝が笑った。汗が滴り落ちるのを感じながら、しばらく荒い息だけを繰り返した。
銀縁眼鏡というアイテムは田口に、ある後輩を思い出させる。いつも銀縁眼鏡とイヤホンを身に着けている彦根新吾という名前のその男は、いたずらっ子のように目を輝かせて、よく笑う。人好きのするその笑顔は、特に女性に人気が高い。彼が特定の誰かと付き合っているという話は聞かないが、どうせ美人と好い仲になっているのに違いなく、そんなことをわざわざ吹聴して回るというよりむしろさり気なく隠し通していつの間にか他の女と付き合っているような食えない奴だ。それでも育ちは良いし常識がないでもないから深夜で人気のないとはいえ校舎で行為に及ぶとも思えないのだが、実際目にしてしまったのだから仕方ない。
あれは彦根だ。
一度そう思ってしまうともう、そうとしか考えられない。汗だくで下宿に戻り、風呂に入るのも億劫でそのまま眠りに落ちようとする微睡みの中で彦根の顔がにやりと笑う。その笑みが実際とはかけ離れていやらしく、俺は何を考えているのだと安物の薄い枕に顔を押し付けた。すまん彦根と念じて強く目をつむると、苦もなく眠りに落ちた。
そして夢を見た。
夢の中で田口は男に抱かれている。硬い指先が体の表面を撫でさすり、陰茎が田口を貫く。体が弓のように跳ねて、しなった喉からは女のように高く細い声が漏れた。空に伸ばした手を男が掴んで引き戻す。田口の顔を覗き込み、にやりと笑った。それではっと目を醒ました。閉じっぱなしのカーテンの隙間から日の光が注ぎ込んでいて、朝だった。びっしょりと汗をかいていた。
夢で自分を抱いた男の顔が脳裏にこびりついている。銀縁眼鏡に浅い微笑み。それは彦根の顔をしていた。
端的に言って、最悪の目覚めだった。
絶対に会いたくない、そういうときに限って現れるのが彦根だ。
その日の田口はと言えば、最悪の目覚めの余韻をなんとか振り切って大学に向かったものの会う人会う人に体調を心配されるほどに顔色が悪く、速水なんぞは無駄に好漢ぶりを発揮して保健室まで送るだなんて言い出したほどだったのだけれど、あんな夢ごときに屈してはならない、と普段さぼってばかりいるくせに意地を張って授業に出たらさらに心配されてしまった。大丈夫、と聞かれる言葉の前にはどうせ、頭が、というのが省略されているのだから失礼だ。憤りながらも腹は空く。昼飯を買うために購買に出かけたところで彼を見つけた。
彦根はさして急ぐ様子もなくゆったりと購買に向かっている。人混みの間から見える、いつもと同じ銀縁眼鏡が残暑の陽射しにも爽やかだ。明るい日の光の下で見る彼の顔は清潔で、とても昨夜のように月の光を浴びて妖しく笑う男と同じとは思えない。いや、本当に、違う人だったのかも?
後ろからおそるおそる近付いて、イヤホンを引っ張り耳から外す。彦根は険のある顔で振り返ったが、田口とわかるととろけるような笑みを見せた。女子供の大半は、この笑顔でやられてしまう。田口も一瞬くらりとしかけた。夢で見た笑顔との乖離がひどすぎて。
「あ、田口先輩。こんにちは」
そう挨拶した彦根はちょこんと首を傾げ、
「なんだか顔色が悪いですね。悪いものでも食べました?」
田口は授業をさぼって雀荘に通うか空き教室で惰眠を貪るのを日課にするくらいだから寝不足でもストレスでもないし、となると食い意地を張って賞味期限切れのものでも食べたに違いない、という推測が見え隠れする彦根の台詞。二学年下のこの後輩との付き合いもなんだかんだで長いから、そんなことまでわかってしまう。しかし不躾な後輩だ。
失礼な疑いをかけられるのも朝から数度目だったので、面倒くさくなって単に首を振るだけで否定した。
「彦根。ちょっと聞くけど……昨夜は何してた?」
「速水先輩と飲んでました」
え、と思わず顔を上げて正面から彦根を見つめる。見つめられた彦根のほうはきょとんと田口を見返す。購買の入り口で突っ立って見つめ合う二人の横を、昼食を買い求めに来た学生達がじろじろと邪魔そうにしながら通り過ぎた。彦根が体をずらして、彼らに道を開けると同時に日陰に入る。田口も自然とそちらにずれながら、
「速水と?」
慌てて舌が縺れたけれど、大して気にする様子もなく、ええと彦根は頷く。
「あれ、速水先輩に聞いてません? 田口先輩が捕まらないから僕でいいって言って、いきなり呼び出されたんですけど」
そういえば今朝、速水がそんなことを言っていた気がする。もしこれが嘘であれば速水に確認してすぐにそうとわかるので、頭の良い彦根が言う以上それは本当のことなのだ。
彦根と速水が夜通し飲んでいたとすれば、昨夜の男は彦根ではない。
張っていた気持ちが緩み、思わず顔がほころんだ。早とちりか、馬鹿馬鹿しい。
田口は緩みきった顔のまま、改めて彦根を見つめた。そして、やっぱりこいつがあんなことをしでかす筈がない、と得心して一人頷く。なにしろこいつは麻雀で勝負を仕掛けるのにもおろおろと優柔不断に迷っているような男だから度胸はないし、そんな男が公共の場で行為に及べるわけもない。考えてみれば銀縁眼鏡の男なんてそのへんにいくらでもいる。
田口は急に元気になって、後輩の背中をばしんと叩いた。
「おまえ、眼鏡変えたら?」
「嫌ですよ」
かくして以前通りの平穏が訪れたと思われた田口の夢に、再び男が現れたのは一週間後のことだった。空き教室で惰眠を貪るか麻雀に一喜一憂する生活に戻った田口を誰も心配してくれないので、たまには授業に出て心配されるのもよくないなあ、なんて不謹慎なことを考えた罰を与えるように。
男は田口の足の間に頭を埋めていた。その舌が田口自身を舐める夢のような快楽が逆に現実的ですらあった。田口は彼の頭を掴み、髪をかき回すことでそれに耐えた。現実では耐えられなかったわけで、この年になって情けない。下宿の万年床の上で頭を抱え、田口は深い深い溜息をついた。一体どうしたことだろう。
もうこんな夢見たくない。そんな心の叫びも虚しく、以来その夢は時折田口を苛んだ。授業をさぼることには罪悪感を覚えない図太い神経もさすがに衰弱し、ろくに物も食べられない。夢を見るのが怖いから寝るのも怖い。結果、青白い顔でふらりふらりと構内を彷徨う田口を心配する人避ける人。雀荘に行っても運に見放され、空の財布を逆さに振っては溜息を吐く田口を、ひょいと気遣わしげに覗きこんだのは彦根だった。心臓の奥がぎゅっと掴まれて、咄嗟に息ができなくなる。お願いだからよしてくれ。
力ない微笑みを返すと、彦根は田口の顔をじっと見た後、
「ちょっと待っていてください」
と別の卓に混じっていった。特に予定もないので持っていた文庫本を開いて手持ち無沙汰にめくっていると、しばらくして彦根に呼ばれて顔を上げる。時計を見ると一時間以上経っていた。眠れなくなってから、時間の感覚も狂っている。
ぼんやりと見上げる田口に、彦根は何枚かの福沢諭吉を差し出した。
「死にそうな顔してますよ」
ありがたいやら申し訳ないやらで、余計に彦根の顔が見られない。気を遣ってか、今度返してくださいね、なんて言われるのにも罪悪感が募ってしまう。いくらかの押し問答があった末、その金は結局田口が受け取ることになった。彦根の弁舌には敵わない。
せめてもの抵抗として、二人で定食屋に入り、彦根の分も奢って食べる。家に帰るともう深夜だったので、床に座った瞬間、眠ってしまった。見るのはもちろんあの夢だ。内容はどんどん過激さを増し、自分ではもう止められない。
このままでは本当に、頭がおかしくなってしまう。速水に告白されたのは、そんなときだった。
季節はもうすっかり秋になっていた。大学から少し離れた公園で、赤茶の葉がひらりひらりと舞っていた。
「おまえが好きだ、田口」
告げられた言葉に、葉の落ちるのがスローモーションに変わる。速水の耳の先がほんのり赤い。それが葉の赤を反射しているのではないと気付くと、田口は自然と頷いていた。照れを含んだ速水の真っ直ぐな視線がほっと緩む中、田口も肩の力が抜けて、不思議なほど穏やかな気持ちでいた。
この高潔な男は自分があんな夢を見ていることを知らないし、これでもう、見ることもなくなるだろう。速水の顔を見つめてはにかみながら、田口を満たしていたのは高揚よりも安堵だった。
やがて田口の予想は現実になる。
速水との交際は最初こそ清いものだったが、すぐに若い男らしく欲に溺れた。夢でしていた行為が現実になり、飛びそうになる意識の中で夢と現実との境界を失いかける田口の目に映るのは速水の顔だ。精悍で、額に汗の浮いた速水の顔。いつになく真剣なその目元が、田口の視線に気付くとふっと笑んでキスを落とす。その瞬間に夢の世界は無意識のひだに隠れて、そんな日々が続くうち、いつしか姿を見せなくなった。からりと笑う速水の横で、夢に悩んだ日々すら忘れた。跡には銀縁眼鏡とうっすら微笑む口元だけが、田口の無意識の奥、あの日の夜の校舎の奥に残された。
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2013.5.16.
なんとなく書いてみた彦田。
でも彦根→田口の矢印はないです。ないない。
しょうどん(将軍行灯)に落ち着くまでの些細な一幕。