眠れなくて、リビングに降りた。カーテンを開けると青白い光が部屋を包む。凪いだ海が遠く、けれど手の届かないではない距離に広がり、波の音を幻聴に聞くうちに、なんだか泣きたくなってきた。キッチンのミルクを温めて、ソファに戻って膝を抱えた。
自分の家ならば小ぶりの鍋で温めるところだが、朝比奈夫人と、義兄の情けで泊めてもらっている別荘である。義兄が昼間に使っていたのとは違う、また朝比奈夫人の趣味でもなさそうな、白く丸みを帯びたマグカップを選び、電子レンジで温めた。そのおかげで、表面には薄い膜が張っている。唇にはりつかないように、舌を出して掬い取る。こんな行儀の悪いことは、義兄の前では決して、できない。
と思っていたら、階段の上から声が、続いて義兄が降りてきて、心臓が止まるかと思った。
「眠れないのか」義兄の声は少し掠れた。
「少し、目が冴えて」
答える自分の声には動揺が滲んでいた。咳払いして続ける。「何か飲む?」
義兄の節ばった指が私を指し、二人きりのしんとした夜に聞こえそうなほど、心臓が鳴った。
「それでいい」
誤解するまでもなく、指先は、私の手のマグカップを指していた。私は少しの間止めていた息を小さく吐き出し、マグカップを手渡す。
隣に座った義兄は、組んだ長い脚のくぼみにマグを置いて、口をつけようとしない。視界の端で気配を伺うと、思い出を追想しているようにも、遠い潮騒に耳を澄ませているようにも見えた。
私と義兄の前には、二人がけのソファが佇んでいる。まるで誰かが座るのを待っているように。
「海が近いな」ぽつりと義兄が言い、私の潮騒は遠退く。「泳ぎたくなる」
泳ぐ趣味など二人ともなく、それは異なる意味を持っているように、私には聞こえた。ぎょっとして義兄を見る。その精悍な顔立ちが、驚くほど近くにあった。
酸欠のように幾開いては閉じることを繰り返してから、私はやっとのことで言った。「風邪を引くよ」義兄は私の顔を覗き込んで、私の苦しい言い訳を促すように意地悪く微笑んでいる。広いソファの上で追い詰められ、私はほとんど座る場所がなかった。できるだけ義兄に触れず、息がかからず、匂いを感じないようにと努力するが、他ならぬ義兄のせいでそれらは全て虚しい努力になっていた。「……着替えもないし」苦し紛れにそう言うに至ってついに義兄は吹き出し、体はすっと離れた。私はくたりと、解放された体をソファの肘掛に投げ出す。
隣から笑い声がして、くつくつと義兄が笑っている。からかわれたのだ。
「失礼な。至って真面目だ」
そんな馬鹿なと睨みあげると、確かに義兄は真摯とも言える目をしていた。その目が私を見つめている。目が離せるわけもなく、ついうっとりとした気持ちになった。
からかってなどいない、と義兄は非難の色濃い、抑えた声で繰り返す。義兄の視線と声色は、たとえどんなものであっても私を心地よく刺激する。
「それはおまえの方だろう」
「僕?」
「一つ屋根の下に二人きりで、好きな男に手を出さないし、出させない。そのくせ視線は熱っぽい。だからおまえは高校生だと言うんだ」
私は狼狽して言葉を失った。半ば知っていて気付かないふりをしてきたことだが、義兄は私のあさはかな劣情に気付いており、義兄の方でも鈍感なふりをしていた。
なぜ、今になってそれを口にするのだろう。私は、義兄を自分のものにしたいなどという、過分な望みを抱いたことなどない。義兄の方でもそれは同じはずで、つい一昨日過ぎた姉の誕生日に、姉の思い出を懐かしんだばかりというのに。
おまえは、とこんなときでも義兄は私のことを名前で呼ばない。
「俺を一生、義兄さんと呼ぶつもりか」
初めて会ったとき、まだ姉と結婚していなかった義兄を、私はただ一哉さん、と呼んでいた。姉と同じその呼び方は気恥ずかしく、義兄さんと呼べるようになったとき、私は随分ほっとした。彼が姉の夫であるということを、忘れずにいさせてくれる呼び方だった。
義兄は肘掛に手をついて、私の顔を覗き込む。視線は強いが、私を包み込むようなそれは、けして押しつけがましいものではなかった。月光だけが射し込む部屋の中で、義兄の顔はよく見える。それだけ記憶に残っているし、物理的に近くもあった。私は両腕で目を、顔を隠した。そうすることで相手からも見えなくなると信じる、幼児のように。
見逃して欲しい相手とは、もちろん姉のことだった。
私は震える声で言った。
「一哉さん」
たとえば「これで満足か」と続ければ、まだ引き返すことができただろう。けれど私は腕を外して義兄を――一哉を正面から見つめると、再び、一哉さんと呼んだ。
私が彼の形の良い頭蓋に手を伸ばすのと、彼が私に食らいつくのとがほとんど同時だった。一瞬の後に唇は合わさり、私はようやく、何年も見つめ続けた男の体温を知った。
ソファで一度。そのあと、義兄(やはり名前で呼ぶのは落ち着かない)の部屋に移り、ベッドでもう一度。義兄は私の名前を呼んだ。つかさ。熱く私の肌を粟立たせる吐息に乗せて、つかさ。――一度。つかさ、……二度。呼ばれる度に数えようとしたが、すぐに諦めた。ずっと閉じ込めていた獣が、歓喜に正体を失くした。
目が覚めるとベッドには私一人であり、ベッドの残り半分はすっかり冷たくなっていた。不思議と、悲しくはない。義兄は弱い人間ではないが、どんな人間にも、気の迷いということはある。傍らのシーツに義兄の眠っていた形跡を認め、夢ではないことを確かめる。それだけで充分だった。
自分の体温に温まったシーツにくるまったまま、ぼんやりと微睡む。静かな家の中に、どうやら義兄はいない。もう東京に戻っているのなら良いが、そうではないのなら、帰って来る前に出て行かなければならない。ならなかったが、鈍い痛みが体を重くしている。そしてそれは、しばらく味わっていたい感覚だった。我ながら、手のつけようもない馬鹿だと思う。
姉夫婦の家と隣り合う私の家には、時々、合鍵を使って義兄がやってくる。引き払って、会社の近くにでもアパートを借りるのが良いだろう。会社の人間に犬と呼ばれようとも、私は義兄に対して、これ以上恥知らずでいたくないのである。
鈍痛を愛しながら、半時ばかりそうしていただろうか。体を起こした瞬間、玄関のドアが開く音が、小さくした。
足音が近付き、部屋の扉が開かれる。私がベッドにいるのを認めると、義兄は呆れた。
「まだ寝ていたのか。もう昼過ぎだぞ」
義兄の左手から、香ばしいかおりがした。袋にはパン屋のロゴが描かれている。
「起きるなら、先にシャワーを。続きをねだるなら、日が落ちてから」
「……なかったことにするのかと」
茫然と呟く。義兄は喉の奥で笑った。「あいにく、そこまで薄情ではない」
義兄は私を見つめ、その眼差しが優しいことに私を戸惑わせた。私がシーツを掴んで離す気配を見せないので、義兄はベッドの端に座る。昨夜何度もかき抱いた裸の背中は清潔にアイロンのかけられたシャツに包まれ、今もって手の届く距離にあった。
手を伸ばすことを、私は躊躇っていた。
「……じゃあ、一夜限りの関係に?」
「信用がないんだな」義兄は眉をひそめたが、横顔はそれでも魅力的だった。「それともそうしたいのか?」
義兄を見詰める度に、私の脳裏で姉が微笑む。そして義理の兄と弟という関係は、彼の傍にいる半永久的な言い訳を用意した。恋人という関係にいつか訪れる終わりより、それは甘美に私を慰める。
けれども、昨夜の義兄の体温が忘れられないのも事実だった。近くにいるだけで、獣が疼く。躊躇って膝の上で閉じている手は、ひとたび彼に触れれば、強欲に求めるだろう。
「わからない」私は正直に答えた。「あなたが好きだ。でも、姉の夫でもある」
「義理の兄だから欲情するのか?」
「違う。――初めて会ったときから、あなたを見てた」
その答えは、義兄の意表を突くのに成功したらしい。義兄は用意していた言葉を飲み込み、目を逸らした。
容姿の良すぎる男は信用ならない、と姉はよく言っていた。その姉が、後に義兄となる彼と付き合いはじめ、容姿の整った男を連れてきたものだから、私が警戒するのも無理はなかった。けれど彼らと別れて帰る頃には、その警戒は、すっかり別の意味を持っていたのだ。これ以上、彼に心奪われないように、と。
今となってはすっかり用をなさない私の警戒心である。
「おまえはあぶなっかしすぎる」
と、義兄は言った。
「目が離せない」
つまりはそれが、わかりにくい彼なりの告白にあたるらしかった。
強盗に押し入られたときにも、Yの甥に襲われたときにも、助けてくれたのは義兄であった。別荘地で車を失った私を、結局は家まで送ってくれたのも。
馬鹿をしてみないか、と毎度Yが持ちかけるように、私の仕事では体を使うことが求められる。比喩的な意味でも、即物的な意味でも。だから義兄に謝ることも、改善するよう約束することもできず、私は居心地の悪い思いを味わった。
口ごもった私に向き直ると、義兄は手を伸ばし、私の肩に触れる。深みのある声色が私を温める。
「おまえは今でも私の義弟だが、同時に恋人にもなり得る」
「それは愛人と呼ぶんじゃ?」
私の声は水分を含み、下瞼から涙が落ちないようにするのが精一杯だった。義兄は笑って顔を覗き込む。
「お望みならば今すぐに、母に知らせてやる。小言の一つも甘んじて聞いてやれば、その後はきっと喜ぶだろう」
ついにこぼれ落ちた涙を、義兄が拭った。人差し指が頬を滑り、舌の先が目尻を掬う。義兄は額にキスを与え、髪を梳いた。恋人をあやすように。
姉を愛している。私も義兄も。そしてそれとは違うベクトルで、同じくらいに、私は義兄を。
自分もそうだと義兄は言い、私に触れる。その手をとりながら義兄と呼ぶことを、私は許されたのだ。
義兄と呼び、義兄と呼ばれるとき、どちらも胸の裡で姉に小さく謝罪する。姉を介在して始まった関係が、姉を失って形を変え、なおも続こうとすることに、終わらぬ謝罪を繰り返す。そんな形の海があっても良いと、私達は開き直って海を泳ごう。
シャツの襟元を掴み、義兄にくちづける。もとより私は服を着ていない。すぐに熱い息が重なり合い、義兄が私の肩を押して、ベッドに倒した。
「あ……、まだ日が落ちてない」
「いや、もう夜だ」
義兄はそう言って、窓にカーテンを引いた。ほのかな光の射し込む部屋の中で、白いシーツが海のように広がり、情事に合わせて波打つ。私は下手な泳者のように、縋り付いて乱した。
海に行きたい衝動は、もうすっかり満たされていた。ここが私の海だった。
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2014.1.11.
長.野ま.ゆみ先生の『レモンタルト』の義兄と弟です。
原作本編終了直後、伊豆の別荘で二人きり。
原作読み終わった直後に続編を探しましたが、ないんですね…悲しい…。
解説ではこの二人は結ばれることがないと書かれてましたが、
この二人とっても可愛いので弟の士(つかさ)くんが報われる未来があってもいいじゃないかと思って書きました。
どうかお幸せにね。