兄の手が無造作に金の髪を撫でるのを見ながら、不機嫌に顔をしかめることしかジンは出来ない。
「もう、やめてください、ラグナさん!」
「はいはい。ったく、しょうがねえな」
 ぶっきらぼうな言葉と反対に優しい表情をして、兄は少女を甘やかす。少女の方でも言葉ほどには嫌がっていないことは明白で、ジンの眉間の皺がますます深まる。
 今すぐ二人の間に割って入り、少女から兄を引き剥がしてしまいたかった。けれどジンはそうしない。そうできない。緑と赤の兄の瞳が愛おしげに細められ、少女が頬を上気させて怒るふりをするじゃれあいを、睨むことしかできない。睨む目がまるで羨望のように細められているのを自覚するのに、目を逸らすこともできないのだ。
 兄の手を見詰めながらその温度を知らず、少女と同じ金の髪を持ちながら撫でられる感触を知らない。
 ジンにあるのはただひとつ、兄への慕情だけだった。





 睨みすぎ、と兄の指がジンの眉間をつつく。一瞬の接触すら、ジンの心を弾ませるのには充分だった。痛いよ兄さん、と唇を尖らせて甘えた矢先にラグナは続ける。
「ノエルのやつ、お前を怖がってたぞ」
「あんな障害、どうでもいい」
 素速く冷えた心を持て余してふんと鼻を鳴らすと腕を組み、兄を睨む。
「兄さんはなんであいつを甘やかすの」
 障害。屑。あいつ。ジンは彼女の名を呼ばない。統制機構を離れてなお、ヴァーミリオン少尉、と頑なに呼ぶ。
 ノエルという名に、こだわりは特にない。呼ばないのは親しくするつもりがないことを示すためであり、その理由である彼女の顔の方にこそ、ジンは陰鬱な拘泥を抱く。
 ノエルの顔を見るとジンの心臓はすっと冷え、頭は見えない器械で締め付けられているように、ずきずきと痛む。幼い頃のことをあまり覚えてはいないけれど、兄と妹、シスターと教会で過ごした記憶の庭が踏み荒らされるような感触は、ひどく不快だ。おそらくは美しかったはずの芝生が掘り返され、木漏れ日が曇る。妹を呼ぶ兄の声が耳の奥でこだまして、ジンを呼ぶ声が聞こえない。
「……あいつはサヤじゃないよ」
 苦々しく口にすると、ラグナは軽く「わかってるよ」と答えた。
「別にノエルだからってんじゃねえよ。ただ、癖っつーか」
「ふうん。癖ねえ」
 兄が彼女の頭を撫でるのが、確かに癖と呼ぶに相応しい頻度であることにジンは苛つき、追求の手を緩めてやらない。
「ふん、あんな屑にでれでれしちゃってさ! 死神の名が泣くよ」
「でれでれなんかしてねえだろ!」
「してるよ。気付いてないの? あの女に優しくするのがそんなに気持ちいい?」
 詰る口調がきつくなるのを止められない。自分の言葉に煽られて怒りが込み上げるのはひどく幼稚だとわかっているが、抑えきれずに兄に詰め寄った。記憶の庭が荒らされるのは兄も同じであるはずなのに、ノエルに優しく接する兄はそれを良しとしているようで、ジンは実は傷ついている。自分が兄から奪ったものが本当は大したものではなかったのだと言われているような、そして同時に、自分が兄と共有する、家族としての僅かな記憶がないがしろにされているような気持ちになる。そこには家族としての妹への感情も含まれているのだが、それを兄には言ってやらない。
 煽られたラグナは大きな声でちげえよと否定して、ジンの眉間を何度もつつく。それも癖なのだろうか、兄の。防ぐことはもちろん可能だが、ジンは甘んじてその痛みを受け入れた。兄との瞬間的な接触に、何度でも胸を高鳴らす。
 己の言う内容に照れているのか、ラグナは怒鳴りながら顔を赤らめている。
「あれは、俺が優しくしてるんじゃねえの! 俺が、優しくされてるの!」
「は? 兄さん、何言ってるのかわからないよ」
 怪訝なことを言う兄だ。眉を顰めて見上げると、兄もやはり眉を顰め、少し真面目な顔をする。視線は僅かに真摯さを帯び、兄は弟に教えた。
「触るのを許すのは、それだけで優しさになるんだよ」
 触れるのを許す優しさ。眉間の皺を伸ばそうとするラグナの指を、ジンが拒まないことも同じように呼ぶのだろうか。自分が兄に優しくしていると、兄は優しくされていると感じていると言うのだろうか。
 優しさなんて単語は、自分と兄の間に存在しないと思っていた。
「兄さん!」
「うおっ」
 抱きつこうとした腕が拒まれない。いつもだったら逃げられるのに、自分が教えた手前、避けられないのだろう。決まり悪そうにしながらも、ラグナはジンの頭にぽんと手を載せ、髪を撫でる。温かい掌の下で、自分の髪が滑る感触が気持ち良い。ラグナの首筋に頬をすり寄せ、自然と笑みが顔に浮かぶ。兄の体温は高く、子供のようだと思う。
 子供の頃、兄の手は熱く、自分の手は冷えていた。
 例えば戯れの剣士ごっこに興じた幼い日。夢中になって手加減を忘れた兄の力に転び、差し出された手をとろうとした。温かい掌に包まれ、強い力で引っ張り起こされるはずだった。自分が強く叩き過ぎたことを忘れてジンを詰る兄に、それを指摘することはせずごめんと謝り、剣に見立てた木の枝で遊び続けるはずだった。
 けれど兄は自分の手をとらず、咳き込んだ少女を抱き上げた。選ばれなかった手の冷たさを、忘れられる日は来ないだろう。
 兄の髪を撫で、その少し硬い感触を知る。髪の中に指を差し入れ、ほのかな温かさを掌で知る。いま、ジンの手は温かく、心臓に急かされて熱いくらいだ。
 遠くで獣兵衛がラグナを呼ぶ声に、兄は慌ててジンを引き剥がす。
「おい、もういいだろ! じゃあな!」
「あっ! もう……兄さん!」
 去りゆく赤い背中に伸ばす掌に、まだ兄の熱が残る。指先に、てのひらに、動脈に、胸に。中心で脈打つものを、心臓ではなく心と呼んでもいいのだろう。無理に兄を追いかけることはせず、踏み出した足を静かに戻す。
「ジン兄様」
 繊細に響く少女の声が、ジンを呼んだ。何度も呼ばれているけれど何度だって懐かしい、そういう類の声であり、そういう類の呼び方だった。振り返らずともわかる相手の名を、振り返りながら同じようにジンも呼ぶ。
「ツバキ。いたのか」
「ええ、つい先程から」
 青い瞳に困惑の色を浮かべ、ツバキは頷く。どうかしたかと首をひねるジンにためらいがちに視線が向けられ、受け止めてやると凛と覚悟を決めたように顎を引く。
「……ジン兄様は、ラグナさんがお好きなのですか?」
 桃色の唇が紡ぐ問いかけが、ただ兄弟愛を指すものではないことは明らかだった。他の相手ならば当然だとも馬鹿なことを聞くなとも即答できる筈だったが、真っ直ぐに見詰める義妹の視線に気圧されて、ジンは思わず言葉を呑んでしまう。
 ジンの記憶の庭において、教会の芝生はヤヨイ家の中庭に続いている。まだ寒い三月の日に、少女は一人で毬をついていた。当主会議に合わせたのだろう美しい着物は誰の視線を得ることもなく寒風にさらされており、同じく誰の注目を得ることもなく寒空に放り出されたジンが、彼女の落とした毬を拾ったのは偶然だった。偶然を運命に変えたのは少女の無邪気だ。狭い世界に閉ざされた同志とも言うべき少女は可憐に笑い、年上の少年に絆を求めた。
 触れられることを許す優しさ。甘やかされることを許す優しさ。ねだられるまま兄と呼ぶことを許したのはジンだったが、本当に優しくされていたのもまた、ジンの方だった。
 花の名の少女が咲く。ジンのために咲いては散り、散っては咲き、巡る事象に枯れることなく幾度も繰り返される花に対し、ジンは何度刃を向けただろう。事象干渉の消えた世界でようやく花は散ることもなく蕾を開き、ジンの刃はそれを背に守ることを選んだ。
 ツバキ、と花の名を呼びながら姿勢を正し、彼女に向き合う。ジンの答えを待ってツバキは体を硬くするが、答える言葉は短く、ただ一言、ああと肯定で足りた。
「ああ、ツバキ。そうだ」
 ツバキが兄様と呼ぶ声と、同じ気持ちがジンが兄さんと呼ぶ声に混じる。慕情。憧れ。恋情。執着。緊張の緩んだツバキに、ジンはゆっくりと歩み寄る。
 自分を兄と呼ぶ少女に、ジンの本当の兄を紹介したのはつい先日のことだった。殺そうとしてくる相手に飯を奢るお人好しで、力で押すことしか出来ない馬鹿で、けれど強くて優しい兄だと教えると、ラグナは照れ隠しをするようにジンを怒り、ツバキは驚きながらも吹き出した。
「よろしくお願いします、ラグナさん」
「ああ、こちらこそよろしく。ツバキ」
 微笑みを交わす二人を見詰めるジンの手は、確か温かかったように思う。
 自分には兄への思慕しかないと、頑ななまでにそう思っていた。しかし宗家に引き取られたジンの隣には、いつだってツバキの控えめな笑顔があった。衝動も願望もなくからっぽであったジン=キサラギに、少女の憧憬が中身を与えた。
 そう、ですかと俯きそうになるツバキの頭に手を伸ばす。赤い髪に触れ、表面を滑らせる。見た目も艶やかな細い髪はジンの掌の下でそっと流れ、ジンはツバキの頭を撫でている。目を丸くしてツバキが見上げ、その視線を受け止めて、ああなるほどとジンは思う。
 優しくすることを許される距離の甘やかさ。見詰める視線に拒絶の色はなく、むしろ心地良くジンを包む。髪の色が移ったようにほんのりと赤らむ頬。熱を宿し潤んだ空色の瞳。震える睫毛。ツバキの気持ちに応えることはできないけれど、これからも変わらず兄と呼んで欲しいと思う傲慢を、どうか許して欲しい。
 ジンの頬に微笑が浮かび、見詰める瞳が優しく綻ぶ。
「ありがとう……ツバキ」
 ジン兄様、とツバキの口から驚きの声が漏れ、瞳がいっそう大きく開かれる。
 ジンは決して良い兄ではなかった。ラグナのように優しくも強くもなく、むしろ冷たく突き放し、弱さが彼女を傷つけた。これまで伝えることのなかった感謝はジンの中に蓄積し、兄に温められた掌から溢れだしても構わない。
 固まったツバキをからかうように小さく声を漏らして笑い、ジンは赤い髪を撫でる。ジン兄様と戸惑いながらツバキが呼ぶ声が、年頃の少女らしく高く上擦った。ジンはますます笑みを深くして、髪を撫でる手を離さない。眉間の皺は既になく、表情は微笑を通り越して笑顔に近い。もう、と顔を赤くしてツバキが怒ってみせると、ジンはとうとう、声をあげて笑った。





-----------------------------------------------------------------
2014.04.08.
続き。兄と弟と二人の妹の話。
ジンラグ成分出てきましたが相変わらずほのぼの系ジンキサラギで、
兄さん殺し合おうよぉ!なジンキサラギがそろそろ恋しい。
幼なじみで義兄妹なジンツバもすごく可愛くて大好きなんです。