ジン兄様、と鈴の鳴るような声で呼びながら、駆けていく少女がいた。
 飛んでいけないのがもどかしいとでも言いたげに、地面を蹴って進む脚。背中で跳ね、光を返すカメリアレッド。追い抜いたラグナなんて一瞬さえも映さない、スカイブルーの瞳。
 その視線をなぞり、ラグナも彼に視線を戻す。遠くともわかる金色の髪。すらりと伸びた手足。緑の瞳は記憶の中で細められ、自分に少しだけ似ている端正な顔立ちを、ラグナは脳裏に思い描ける。
 ジンは振り返り、少女を視界に含むと柔らかく微笑んだ。
「ツバキ」
 呼ばれて、少女――ツバキはいじらしくはにかむ。ジンを見上げ、恥じらって目を逸し、また見詰める。その好意に返されるジンの瞳は見守ると呼ぶに相応しく、名を呼んだ口元は優しく綻んで拒まない。話す声は聞こえないけれど血腥い話題ではないのだろう、静かで、穏やかな時がそこには流れる。
「……」
 ラグナは自分に気付かない二人を見詰めた。無意識に息をひそめており、そのせいか胸が苦しい。
 微笑を浮かべ話す二人に陽光は降り注ぎ、ラグナは声をかけられない。





 声をかけてくれれば良かったのに。唇をとがらせて詰られ、ラグナは眉を寄せてジンを睨む。
「もしかして人見知り? 可愛いね、兄さん」
 勝手に合点して、弟はくすくすと笑う。少女と比べれば声は低いが含まれる気持ちは似通っており、異なるのはおそらく熱さだ。今もラグナの隣を歩きながら、焦がすような熱が視線に時折混じる。緑瞳の奥に熱芯があり、窯の奥のマグマよりも燐寸棒の先の炎の青さを思わせる。あるいは氷が肌に触れ、痛みを伴う瞬間に錯覚される熱量を時々思う。ジンの携える氷剣からの連想であることは言うまでもない。
「あっ、兄さん!」
 ツバキと話していたジンは、近寄るラグナのかすかな足音に顔を上げた。足音がかすかだったのは、これも無意識に消していたからだ。そんなラグナの躊躇には気付かない、鈍い弟は少女に向けるのと別種の満面の笑顔を見せた。
 少女も振り返り、「ラグナ=ザ=ブラッドエッジ!」手配書に乗る名を生真面目に叫んでから、ラグナとジンを慌ただしく見比べる。
「そんな、ラグナ=ザ=ブラッドエッジが……ジン兄様のお兄様なのですか?」
「ああ、ツバキはまだ知らなかったのか」
 答えるジンの声のトーンが、ラグナへ対するのとツバキへ対するのとではまるで違うのがおかしくて思わず笑う。ツバキへ応えた声は平静を装い、その実ラグナを想っているものだから、弾むのを必死に抑えているようなのだ。
 兄と弟。義兄と義妹。二つの関係に挟まれて、ジンはどちらも選んでみせる。もとより強欲な弟である。ラグナに思うところがないわけでもない。
 睨み合うわけでもなく相対する兄弟は、いっそ睨み合っていた方がわかりやすい。一瞬にして表情を明るく晴らすジンに対して、ラグナは邪険にしつつも離れない。空気を読んだツバキの方が遠慮して、楚々とその場を後にした。遠ざかっていくカメリアレッドを目で追うラグナを、先の言葉でジンが詰る。
「声をかけてくれれば良かったのに」
「……」
 あの空気に声をかけられる人間がいるのなら、よほど自信を持った人物か、鈍感を装う大物か、真に鈍感なのであろう。ノエルなら出来そうだとふと考えてしまうあたり、彼女にきついジンをうまく叱れない。
「……誰だ、あれ」
 あれ、と繰り返しながらジンはラグナの視線を追い、親友たちと合流している少女を見付ける。華やかな笑い声が聞こえてきそうな少女たちの笑顔をぐるりと眺め、
「ツバキのこと? ……知っているでしょう、兄さん?」
 きょとんと首を傾げられ、ラグナは沈黙でもってジンを促す。
 ラグナが知っているのは統制機構第零師団所属の衛士、階級は中尉。かつてはそう名乗っていた十二宗家の娘。心の弱みに付け入られ、一度は帝に与したが、ノエルとマコト、ジンに救われたのが先日の話。
 ラグナはそれに関わらなかった。だから直接の面識はなく、彼女がラグナとジンの関係を知って驚いたのも無理からない。けれど誰だとジンに訊いたのは、そんな理由ばかりではない。
 弟をジン兄様と呼んで慕う少女も、彼女を優しい眼差しで見守る男もラグナは知らない。彼らの過ごしてきた時間の長さも、その濃さも輝きも共有しない。ラグナの知らないジンがいて、記憶に踏み込むことは誰にもできない。思い出を語らせるのがせいぜいだ。
 ジンは傾げた首を元に戻し、まあいいけど、と前置きと共に語り始める。
「ツバキは……ツバキには、キサラギ家に引き取られ、しばらくした頃に初めて会った。一人きりでヤヨイ家の庭で遊んでいた彼女の、落とした毬を拾ってやったんだ。赤と金の縫い取りの綺麗な、とても可憐な毬だった。僕の方が年上だから敬語を使えと言ったら、何をどう勘違いしたのか僕を兄様と」
 当時のことを思い出したのか、小さく声を漏らしてジンは笑う。苦笑しようとして苦笑になりきらない、なんとも中途半端なその笑顔に、混じっているのは親愛だった。ジンがそんな風に笑うのを見るのは初めてで、ラグナは息を呑んだきり、目を逸らせない。
 つくづく鈍感なジンはせっかく向けられた兄の視線に気付かない。遠くツバキを見詰めて語る。ラグナの目には鮮やかな色の髪でしか彼女を認識できないが、もしかしたらジンの目には、澄んだ空色の瞳や微笑む頬の柔らかさまで見えているのかもしれない。ラグナがジンを見るときと同様に。
「士官学校に入ってからも、変わらず慕ってついてきた。高等部では生徒会も手伝ってくれてさ。――生真面目で、世話焼きで、彼女を嫌う人を僕は知らない。僕にはちょっと、口うるさくもあったけど」
 緩んだ口元。穏やかに愛情をたたえる瞳。まるで目の前に彼女がいるように、心の中のツバキを想う。そこにあるのは熱というよりもただ温度と呼ぶべき日向の感情であり、ラグナが教会の日々を想うときとよく似ている。
 ラグナから家族を奪った彼が家族のような存在を得ていることを、嬉しく思いこそすれ憎むことはどうにもできない。
 我ながら甘いのは自覚する。けれどジンを大事に想う人にラグナは感謝を捧げたく、自分がジンを愛せない間、代わりに彼を好いてくれてありがとう、という言葉にそれはなる。兄への執着ゆえに妹へ嫉妬したジンが、妹と呼べる存在を持つことについては、実兄として弟の成長が微笑ましい。
 ラグナは実際に微笑もうとし、自分の顔が強張っていることに初めて気付いた。
 覚えのある限り常に兄を求めていたジンは、その不審に気付かず花の名前の少女を語る。慈しむように優しい微笑が浮かぶ、そんな弟の表情をラグナは知らない。
「おい、ジン」焦りが駆り立てる衝動のままに手を伸ばし、頭を掴んで無理矢理にこちらを向かせる。「ジン、その……」
「え、なに、兄さん」
 訝しむジンの瞳に、ラグナの間抜け顔が映る。頭上の新緑が映り込んだようなその色に、ラグナは植物の枝葉の隅々まで養分が行き渡るような、快い充足を覚える。
 衝動の理由は明白だった。ラグナの間抜け顔がさっと赤らみ、ジンの目も見開かれる。
「兄さん、もしかして」
 ラグナが口を塞ぐより早く、ジンはきらきらと目を輝かせてその続きを言ってしまう。
「もしかしてヤキモチやいてくれたの?」
「うっうるせえ! ヤキモチとか恥ずかしいこと言ってんじゃねえよ!」
「ええー? でも、そうなんでしょ? 僕があんまりツバキのことばっかり話すから、ツバキにヤキモチ妬いたんだ、兄さん」
「なっ、ちげーよ! 馬鹿か、てめえ!」
 にやにやと覗きこんでくるジンから逃れようと顔を逸らすが、はしこく回り込んで来るものだからしつこいったらない。舞い上がったジンは形ばかりの否定の言葉なんか聞く耳持たず、
「またまたぁ。いいんだよ、隠さなくても。わかってるからね、兄さん」
 一体何をわかっているのかと、怒鳴ろうにも彼の言う通りなのだからしようがない。嫉妬は愚弟の専売特許だったような気もするが、ラグナも嫉妬してしまえばおあいこで、世界の平和も乱されない。乱されるのは唯一ラグナの心だが、それくらいは我慢してやるのが兄の務めかもしれないし、乱されるどころかアークエネミーに洗脳されたりテルミに記憶を消されたり、ジンは既にさんざんな目に遭っている。嫉妬というのは本当におそろしいものだなと、初めて覚えた葛藤や衝動を思い返してラグナは思う。多分この程度じゃまだ全然、ジンのそれには追いつかない。
「でもねえ兄さん」
 ふふっと花の蕾の綻ぶようにジンはラグナに笑いかけ、なんだよと、ラグナはぶっきらぼうに聞いてやる。締まりない顔はそのままに、細めた目の奥には熱がある。その手にユキアネサは見当たらない。精神支配を克服したジンから向けられる熱は紛れもなくジン本人のものであり、ラグナは剣ではなく二本の腕でそれを受け止める用意がある。たとえ熱に灼かれても、氷に肌が剥がれても。
 ジンは笑う。熱に浮かされた狂気ではなく、のどけき春の陽気が彼にまとわる。
「僕はずっと、兄さんの弟だよ。だから兄さんも、ずっと僕の兄さんでいてくれる?」
 花の名前を呼ぶときと、同じ温度で兄さんと呼ぶ。ラグナの脳裏には再び教会の日々が蘇り、記憶しているのと同じ仕方でジンは微笑む。けれど低くなった声が、過ぎた年月を忘れさせない。最近もっぱら目付きが悪くなったと評判のラグナが浮かべる微笑も声も幼い頃とはまるで違うが、ジンが見ればどこかには、当時の名残を見付けるだろう。ラグナは淡い微笑と共に頷いていた。
「……ああ。約束してやるよ」
「やった! 嘘吐いたら駄目だよ兄さん!」
 ジンは氷剣の代わりに左の拳を突き出して、のけぞるラグナの目の前で小指を立てる。
「ゆびきりげんまん。兄さん、知らない?」
「知らねえな。なんだそれ」
「じゃあ、僕が教えてあげるね!」
 ジンは満面の笑みでラグナの左手を取り、小指を出させて自分のそれと絡める。あっけにとられている間にもジンは勝手に歌い出し、無邪気に跳ねる声を追いかけて、幼子のようにラグナも歌う。幼い日にするべきだった戯れの歌。兄弟の誓い。

 ゆーびきーりげーんまーん、うそついたらはりせんぼんのーます。

「ゆびきった!」
 上機嫌に己の小指を撫でながらジンが歩き出し、ふと振り返る。眉尻を下げ、少し申し訳なさそうにしながらも、彼と彼女の秘密を打ち明ける。
「実はこの歌、ツバキが僕に教えてくれたんだ」
 ああ、とラグナは笑う。
「そうじゃないかと思ったよ」
 冗談だと思ったのだろう。ほんとう、なんて言って取り合わないジンの後ろをラグナも歩き出す。風が吹き、ジンの頬を、次いでラグナの頬を撫でていく。金色の髪が空気をはらんで空に広がる。青い空に金糸が映えるのを、ラグナは目を細めて眺めた。ゆーびきーりげーんまん、と意味を乗せずにジンが口ずさむ声が届く。
 料理や掃除をしながら自作の歌を歌うシスターの唇から、そのメロディを聞いたことがない。ラグナの知らないことをジンが知っているのなら、キサラギ家に引き取られた後だろう。そして彼がこんな児戯を知っているのなら、教えたのは彼女だろう。彼の手を取り指を絡めて笑える人を、ラグナは他に思いつかない。
 記憶が現在に繋がって、過去が未来になっていく。陽光の中で微笑む二人に、今なら声をかけられる。ラグナは追いつき、追い越しながらジンに言う。
「なあ」
「んー?」
「今度、その……ツバキに紹介してくれよ」
 目を瞠って息を呑み、ジンはラグナをじっと見詰める。やがて氷の溶けるように微笑みを形成すると、もちろん、と笑った。





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2014.03.31.
BBノベライズのジンやハクメンの地の文で、ツバキが花と形容されていたのが大変萌えました。
CPプレイする前にいろいろ捏造しておこうと思ってラグナとツバキの初対面を捏造しました。
二人とも、ジンの大事な人です。