二〇XX年年

高階と渡海について





 ついに鳥は空を飛び、海を渡った。
 仕方がないので、高階も空を飛んだ。鳥に遅れること約三十年。空の色も変わっただろう。鳥はまだ元気だろうか。
 辿り着いたのは暑い、熱い土地だった。内戦の危機を抱えたノルガ共和国というこの国を、鳥は選んだらしかった。
 あらかじめ頼んでおいた通り、空港には領事館から迎えが来ていた。領事館に向かう車の中は冷房が効いていたが、降りるとまたすぐに熱気に包まれる。
「多分、中庭にいると思います」
「ありがとう」
 庭か。やはり建物の中は嫌だったのだなあ、とのんびり思った。あんな小さな、彼の読まない分厚い書物に囲まれた部屋に、大人しく飼われていたのがそもそも不自然だったのだろう。
 一人中庭に向かうと、一番大きな木の陰にハンモックが揺れていた。近寄ると、長身の男が寝そべり、麦わら帽子を顔に被せて日除けにしている。胸の上に重ねられた手は記憶より随分と焼けているが、懐かしい、と感じた。麦わら帽子を持ち上げると、そこには渡海征司郎の顔があった。
 渡海がうっすらと目を開く。高階は覗き込んで、再会の挨拶をした。
「おはようございます、征司郎さん」
 高階の顔を見ると渡海は目を見開いて、あんぐりと口を開けた。忘れられてはいなかったのだ、と少し、いやかなり、ほっとする。だって彼だけ忘れていては不公平だ。
 高階はいつも、渡海のことを考えていた。天城が来たとき、世良が辞めたとき、病院長になったとき、それから起こった様々な事件、そして東城大医学部付属病院の破産。渡海がいたら何と言うだろう、と頭の片隅で考えていた。頭の中の渡海の言うことに、従ったことは一度もなかったけれど。
 まじまじと高階を見詰める渡海の顔が、ゆっくりと微笑みを形成していく。
「今度あんたに会うのは、地獄でだと思ってた」
「おや、地獄に堕ちるつもりだったんですか」
「あんたに付き合ってやろうと思っただけさ」
 狸だもんな、と呟かれて、思わず、なんであなたが知っているんですかと食ってかかっていた。渡海は憮然とした高階の顔を見詰め、吹き出すと、大きな声で笑い出す。その笑顔がいかにも熱帯の太陽と快晴の青空に相応しい明るいものだったので、高階は彼の過ごした三十年を思い、眩しさに目を細めた。





 ハンモックから降りた渡海と、並んで木蔭に座る。渡海がポケットから酒瓶を出して差し出すので一口飲んだが、予想以上の強さに咳き込んでしまった。睨んだ高階に、渡海は笑う。
 渡海が東城大を去ってからのことを、高階は話した。きっといろいろと尋ねられるだろうと予想していたのに、彼は何も訊かず、相槌もほとんどなかった。ただ佐伯教授はお亡くなりになりましたよ、と言ったとき、そうかと小さく笑った。その笑みを眺めながら、鳥籠は本当になくなったのだな、と思った。
 三十年前の忘れもしないあの手術、全ての始まりのブラックペアン。あのとき高階は初めて、渡海が東城大に留まっている理由を知った。高階と彼との間にどれだけの愛情、どれだけの憎悪、どれだけの執着があっても、そんなことは渡海には何も関係がなかった。彼が高階の手の中に留まらないのは、彼の佐伯外科への復讐のためだったと知って、正直に言えば嫉妬を覚えた。あれから佐伯外科の風習を改善していったのは、その気持ちがあったからかもしれない、と今では分析できる。
 その佐伯は死に、自分は病院長にまでなってしまった。外科という地獄。大学病院という地獄。医療という地獄。彼がいなくなってからずっと、地獄を歩む人生だった。
 だから、地獄まで付き合ってやると彼は言ったが、まあ、そうでなくては困る。高階と共に地獄を歩いてくれるのは、渡海しかいないのだろうから。
 ああ今なら言えそうだ、と思った瞬間には口に出していた。
「あなたを愛しています」
 渡海はじっと高階の顔を見詰めた。まじまじと凝視されるのに無言が続き、居心地が悪いったらない。
「何か言ってください」
「……知らなかった」
 渡海が呟くように言うのに、高階は吹き出した。
「初めて言いましたから」
 渡海は微笑む高階の顔を真顔で見詰めた。それから何かを言った。ノルガ共和国の公用語であるドゥドゥ語だ、とわかったけれど、高階はわざと眉をひそめた。
「え? 何て言ったんです?」
「さあな」
「あなたってなんでそう、意地っ張りというか、照れ屋なんですかね」
「あっもしかして、あんたわかってて言ってるだろう」
「何のことですか?」
 高階がにこにこと問いかけると、渡海はげんなりとした顔で舌打ちをした。
 渡海がここ、ノルガ共和国にいることがわかったのは、彼の教え子である日比野涼子に教えられたからだ。コールドスリープから目覚めた彼女は渡海の情報を求めて高階を訪ねたのだが、反対に高階が彼女を質問攻めにしてしまった。
 日比野涼子からドゥドゥ語のレクチャーを受けた高階には、渡海の言葉が、愛の告白であることがわかった。
 素直に日本語で言えないのだから、本当にしようがない人だ。
 ぶつぶつと文句を言う渡海の横顔に、高階は素速くキスをした。目を見開いて振り返った渡海に、少し照れてはにかむ。
「隙ありですよ」
 渡海が吹き出して笑い、立ち上がって手を差し伸べた。
「部屋に行こうぜ」
「私達、もうこんな年になって?」
「記念さ」
 その手を取りながら、高階も笑った。昔は渡海がキスをして、高階がベッドに誘ったものだった。すっかり逆だ。おかしくて、笑いが止まらない。
 キスだけで満足していた男が強欲になり、我儘だった男が無欲になった。そして二人とも、互いへの愛情を自覚して口にできるようになった。手を繋ぎ、顔を寄せ合って笑う二人を恋人だと誰もが言うだろう。つまりはそれが三十年という歳月の成せる業なのだ。
 三十年、楽しいことも辛いことも、後悔することももちろんあった。その筆頭が彼を失ったことだった。けれどそれも必要なことだったのだろうと、今なら思える。
 人生の全てに感謝を。
 仰ぎ見た空は、どこまでも青かった。





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2013.3.17.春コミにて無料頒布
題名は寺山修司の作品より引用しました。