一九八八年
高階権太について
阿修羅だとか小天狗だとか、ものものしい名前で呼ばれるその男は、渡海にとってみればただの狼だ。
狼と聞いて、おそらく大多数の人間が同じ連想をするのではないだろうか。曰く、送り狼。曰く、「男は狼なのよ」。現代日本で育った人間ならば耳慣れた言葉だ。もちろん渡海も、同様の連想に基づいて高階を狼に喩えている。
だが目の前でつつがなく症例検討カンファレンスを進行させる高階の姿は、いたって紳士的で、狼に喩えるのは悪い冗談のようだった。その悪い冗談みたいな横顔をあくびをしながら眺めていると、怒りや呆れではなく、いっそ感動してくるから不思議だ。
渡海がカンファに出席することは非常に稀だ。医局員達は戸惑いを隠さず、ナースステーションでは噂の的になっている。看護婦になぜと訊かれたときには適当に返したが、本当は、昨夜の後で彼がどんな顔をして仕事をするのか興味が沸いたから、痛む体に鞭を打ってわざわざカンファになど出席しているのだった。
昨夜は、久しぶりの逢瀬だった。もっとも、逢瀬をキス以上の行為を含むものと定義するならば、だが。というのも渡海は院内で高階を見かける度に、彼に口付けている気がしているからだ。あるときは驚いたように、あるときは不機嫌さを隠しもせず、またあるときは大人しく自分の唇を受ける高階の顔が好きだったし、渡海は大体においてそれで満足していた。
それについて二人が話題にしたことはない。けれど時々、高階は突然に狼になる。昨日もそうだった。
終業近くなって、高階が手術準備室を訪れた。ちょうど、渡海が白衣を着替えようとしていたところだった。勢いよく開いたドアの向こうに高階を認めたとき、渡海はまず、手術や勤務態度のことについて喧嘩を売りに来たのだと思った。けれどその硬い表情の中で、目は睨むでもなく渡海を見詰めていることに気付いた。潤んでさえいたかもしれない。その目が瞬きをする間に、渡海は再び白衣を羽織って扉に近づいていた。高階はほっとしたように表情を僅かに緩め、踵を返して部屋を出た。渡海もそれに続いた。
高階はあらかじめ病棟の使用状況を調べてきたようで、その足は真っ直ぐに、空いた個室へと向かった。
こういうとき、ついつい口が軽くなるのが渡海の常だった。もともと大して話が弾むでもない高階と二人きりで、さらにこれから起こることを考えると、仕方のないことだろう。高階の方はそんな渡海の軽口には構わず、むしろいつもより冷淡に、ああとかそうですかとか相槌が素っ気ない。ぺたりぺたりとサンダルの底で床を舐めるように進む渡海を置き去りにするような速度で、高階は先を歩く。きちんと白衣を着込んだその背中を見ながら、これから連れて行かれるのは天国よりもむしろ、と渡海は思ったが、それは口には出さなかった。
高階に続いて入った病室はやはり空いた個室で、ぴんとシーツの張られたベッドが部屋の真ん中にひっそりと佇んでいる。高階はカーテンを閉め、渡海にも鍵をかけるように命じた。錠前が落ちる微かな音が聞こえるほど、渡海の神経は冴えていた。
どちらも電気を点けようとはしなかったので、部屋は暗いまま閉ざされた。目が慣れるのも待たず、高階は渡海の白衣の襟を掴んで引き寄せる。乱暴な扱いに対して渡海が文句を言う前に、口を塞がれ、前歯がぶつかった。その裏側を高階の舌が舐め、渡海のそれと絡まり、ねぶる。一方的で緩急の急ばかりである攻め方に、渡海の体の重心が揺らいだ。その一瞬の隙を逃さず、高階は自分より体格の良い渡海の体を、ベッドの上に転がした。
体を押さえつけられ高階を見上げる形になった渡海は、それでもなんとか、口角をにやりと上げてみせる。
「随分余裕がなさそうじゃないか、権の字」
「おかげさまで」
高階は渡海の上着の裾をたくし上げると、露わになった胸を撫で、脇腹に歯を立てて舐めた。ひやりとした感触とそれがもたらす快感に肌がざわめき、思わず声が慌てた。
「おい、権!」
高階は緩慢な仕草で顔を上げた。訝しげにこちらを見る顔に向けて、渡海は不器用に笑顔を作る。
「なあ、やめようぜ」
「ふざけないでください」
すぐさま返す高階の顔に浮かぶのも笑顔だったが、渡海のものとは凄みが違っていた。さすが阿修羅と呼ばれるだけはある。いや、小天狗だったか。
現実逃避のため、ついついどうでも良いことに気が逸れてしまう。それを見透かしたように、高階がはあと呆れて溜息を吐き、右手で渡海の頬を撫でた。ぞくりとする。高階はその反応に目を細めた。
「大体さっきからぺらぺらぺらぺら、なんですか落ち着きのない」
渡海の体に跨り直した高階は顔を覗き込み、にこりと笑う。
「無駄口を叩くなよ」
渡海はぎりりと唇を噛んで高階を睨んだ。そうしないと声が漏れそうだった。凄惨に笑う高階の顔に湛えられた色気に眩暈がしそうだった。欲情しているのは確かだが、普段何気なく口付けている男に否応もなく組み敷かれているという事態に、なかなか頭が順応しない。まるで生娘のようだと思ったが、笑う余裕もなかった。
高階の指が耳朶をなぞり、首筋に逃げたかと思うと、再び耳朶に刺激が訪れる。高階の舌が渡海の耳朶をとらえ、熱い口内に含んだのだ。低い声で囁く。
「そもそも、あなたが誘うんじゃないですか」
そうだっけ、と溺れそうな思考の海で渡海は懸命に記憶をたぐり寄せる。渡海が高階にすることと言えばすれ違いざまにキスすることくらいで、けれどそれは別に、こういうことをしたいからではない。蓮っ葉通りの『シャングリラ』に行きつける渡海の体はまだ若いのに、高階にはくちづけだけで満足してしまうのはなぜだろう。
高階は渡海とは違う。渡海を見下ろす目は貪欲に濡れる。
誤解だ、とその体を押し返すのは簡単なのにそうできないのは惚れた弱みか。するとやはり自分は間違いなくこいつに惚れているのか、と渡海は呆然として高階を見詰めた。
脇腹に舌を這わせていた高階は渡海の視線に気付くと、顔を寄せてキスをした。口に、頬に、耳に、首筋に。高階の吐息が耳の下のくぼみをくすぐり、背中を駆け上がる情欲に渡海はぎゅっと目を瞑って耐えた。
病室は暗く、目を閉じても見えるものは大して変わらない。代わりに耳にくすくす、と高階の笑い声が聞こえて、おずおずと目を開いた。
「ねえ、あなた、本当にやめてもいいんですよ?」
高階は言いながら、渡海の顔を覗き込む。さぞ愉悦に満ちているだろうと予想したその顔は、意外なことに優しく、渡海は聖母を連想した。相手は男で、今まさに自分を犯そうとしていたのに。
「だってあなた、ずっと体が強張ったままですから。怖いなら、やめておきましょう」
優しさに満ちた表情ではあったけれども、からかうようにくすくすと笑われて、渡海はついかっとなって言い返した。高階の顔を見上げ、不敵に笑う。
「怖い? この俺が? 見くびるのも大概にしろよ権の字、俺を誰だと思ってる。死神も裸足で逃げ出す男だぜ」
そうでしたね、と高階が頷き、ごく自然な動きで渡海のネクタイを外して捨てた。あらわになった首筋に、噛み付くように口付ける。
「優しくしますよ、征司郎さん」
それから、その通りになった。高階の手はいつも優しい。なのにその言葉や口調には優しさの欠片も見られないので、渡海は度々混乱する。だからだろう、恋人という言葉を使えないのは。
高階が何を考えているのか、触れ合うときだけわかるような気がする。濡れた目が渡海の顔を覗き込むとき、そこに執着が見える。
けれどその目は愛情を湛えて笑ったことがなかったから、その想像すらできなかった。だから渡海は狼に抵抗をしないわけにはいかなかった。狼の牙が自分に向かう度、彼が狼であることを自分だけが知っている、ということを確認できる。それはなかなかに気分が良い。
秘密の共有。共犯。そんな言葉がふと浮かび、それこそが自分達の関係の表すのに相応しいのではないか、と渡海は思った。
カンファも終盤に近付き、何かご質問は、と澄ました顔で高階が言う。ぐるりと医局の面々を眺め、壁際で一人座っている渡海と目が合った。
高階はにこりと微笑む。
「何かご意見がありますか? 渡海先生」
渡海は肩を竦めて答えた。
「何も。あんたの好きにすればいいさ」
それはどうも、と高階はやはり微笑んだ。昨夜の面影もないその顔を見詰めて、これなら狸がいいところだな、と渡海は思った。
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