一九八八年

渡海征司郎について





 時々、鳥についばまれる。
 多くの人間が利用し、また多くの人間が働く病院という場所であっても、人目につかない場所というものは意外に多い。鳥はそうした場所で、昼夜を問わず、隙をついては高階の唇を奪った。
 鳥の名前は渡海征司郎と言って、高階より背が高く、人の隙を突くことに長けているので、その唇を避けることはなかなか難しい。
「あ、権」
 呼ばれたときにはもうその長い指が高階の頬をとらえていて、唇は抗議の言葉を紡ぐ暇も与えられずに表面を湿らせる。唇同士を重ねるときもあれば、舌の先で舐められることもあった。どんな場合でも彼が高階に触れるのはごく一瞬のことで、たとえ誰かに目撃されても、うまくすれば言いくるめることが可能なのではないか、という程度の短い時間だった。
 言いくるめる、という表現は少々あくどい感じがして高階の趣味ではなかったが、他に適切な言葉も思いつかないからその表現を用いるしかなかったし、無論、その表現の通りにしなければならなかった。自分と渡海が恋仲にあることなど、誰一人として知る必要はないのだから。
 恋仲。恋仲ねえ、と高階は思う。それは自分と高階の関係を、適切に表しているだろうか。なにやらもっと適当な言葉があるようにも思えるが、思いつかないのだから仕方がない。彼と自分の関係を無理に言葉にするのは諦めて、もう何も言わないことにしたい。高階にとって渡海はそんな、頭を悩ませる存在だった。
 そもそも高階の意識の中で、二人は常に『自分と渡海』であって、『自分達』ではなかった。いつだって高階と渡海はてんでばらばらの方向を向いていて、一緒に歩くことなど不可能だし、一緒に歩きたいとも思わなかった。肉欲を離れたところで一つになりたいとも思えない相手に、果たして恋をしていると言えるのだろうか? その問いに対する答えを高階は持ち合わせなかったが、確実なのは、それでも確かに、高階は渡海が欲しいということだった。
 彼が自分から離れるなんて許さないし、自分との間にあるのと同じ関係を、他人との間にも築くだなんてもっての外だった。自分と渡海との間にあるのが恋だろうが愛だろうがなんでもいいし、言ってしまえば憎まれても構わなかった。他の存在と一緒にされたり、無関心になられるよりは、いっそ憎んで欲しかった。親の仇のように愛されたい、という考えが一瞬湧き上がったが、何を馬鹿なことを自分の中で一笑に付した。
 ちょうどカルテを書き終えたので、ナースステーションを出る。彼のことを考えていたら煙草を吸いたくなったのは、口寂しさを思い出したからに違いない。屋上に行こう、とエレベーターに足を向けかけ、けれどもし婦長にでも見つかれば言い訳のしようがないので、建物の端に設置された階段へと方向を変えた。何人かと擦れ違ったが、歩いて行く内にその回数も少なくなり、あと一度廊下を曲がれば階段に着く、という頃になると、もうすっかり閑散としていた。
 突き当りの磨りガラスは、沈みゆく陽の橙に染まっている。その向こうで世界が燃えているかのような、鮮やかすぎる色彩。
 その前の床に伸びる影がだんだんと長くなってきたと思ったら、ゆらりと角を曲がってきたのは、長身の渡海だった。高階は彼に一瞥をくれると、そのまま歩みを進めた。
 いつものようにだらしなく肩から羽織っただけの白衣の裾が、彼の歩みに従って揺れている。橙が彼の影を長く伸ばした。背負った夕焼けはやはり炎のようで、そのどこか破滅的な橙は、彼によく似合った。
 渡海もすぐにこちらに気付いて、素早く高階の全身に視線をやった。一服しに行くところだとばれただろうか。まさか手術のための外科控え室で眠る男に咎められる道理もないので、そのとき高階が考えたのは、一緒に吸いに行くなどと言い出さないといいな、ということだった。彼と並んで煙草をふかして、話すことなど何もない。
 どちらも速度を変えず、ただ睨めつけるように視線を交わらせたまま近付いて行った。廊下は狭かったが、その左側を高階が、右側を渡海が歩いた。渡海の影が高階の横を伸びていく。高階の顔は夕陽に染まっているに違いない。
 あと一歩ですれ違い、さらにあと一歩で離れる。渡海から目を逸らさず、近付くその姿を高階は見ていた。
 渡海の視線がふと、高階を外れて廊下の奥へと向けられる。高階はまだ渡海を見ていた。その意図を理解していたが、それでも視線を外されたのは不満で、睨む目に力が入る。
 渡海が高階を見て、その指が高階に触れた。
「権の字」
 彼は素早く首を傾げると、目を閉じて高階にキスをした。高階も目を瞑った。
 キスは触れるだけで終わった。体が離れると同時に二人とも目を開き、再び歩き始めていた。
「じゃあな」
 渡海は片手を上げて挨拶をしたのだろうが、高階は振り返らなかったので見えない。代わりに時計を見た。十七時五分。あと十分で終業時間だから、帰り支度をしに戻ったのだろう。
 渡海も振り返ってはいないだろうが、高階も手を上げて応えた。





 階段は暗く、高階の足音がかつんかつんと響いて余韻を残す。上り終えた先の重い扉を開いて、屋上に出た。扉を閉め、その場でぐるりと見回したが、他に誰もいないようだった。落ちゆく太陽に向かって歩むと、影だけが従者のようについてくる。終業時間を告げるクラシックがかすかに耳に届き、やがて消えた。
 転落防止のために設けられたフェンスに背中を預け、長く伸びた自分の影と相対した。影の足元から頭の先へと視線を滑らせ、自分の入ってきたドアを経て、空へと向ける。赤い空を、カラスが鳴いて、飛んでいった。
 高階は煙草をふかしながら、また鳥のことを考えていた。
 彼を鳥に喩えるならばさしずめここは鳥籠であろう。随分と自由に羽を伸ばしているが、それも所詮は籠の中。なのに誰も咎めないから放蕩は留まるところを知らない。もう自棄になっているのかもしれない、とふと思い、いや、そんな生半な相手ではないか、と思い直す。
 渡海は気ままに高階の唇をついばみながら、決して高階のもとに留まらない。その餌に名前を付けるとして、それは本当に愛情であるだろうか。渡海の気持ちが高階には見えない。そして見えもしないそんなもので腹が満たされるわけもあるまいに、鳥はそれ以上求めない。代わりに高階が抱く彼への所有欲、あるいは独占欲が高められていくのは本当に苦々しい。まったくなんてことだろう。彼は高階を求めないのに。
 全てが自己満足でしかない。
 もし彼が大人しく飼われるために自分のもとを訪れたなら、そのとき初めて心の底から安堵して微笑むことができる気がする。彼が自分のものになったなら安心だろう、もうどこにも行かないのなら安心だろう。けれどそのとき高階の一部は彼に失望し、もう二度と渡海のことを見ない。そんな気もする。
 太陽は水平線の下に沈み、雲のない空は視界の限り一様に鈍色。指の先から落とした煙草の円い火が、軌跡を描いてぽとりと落ちた。靴の底でそれを踏み消すと、高階はゆっくりと、病院の中へと戻っていった。





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