白瀬くん、と呼ばれる声が嫌いではない。
 その声は低く、甘く、鼓膜からするりと入り込んで心をくすぐる。くすぐられた心は元の位置に戻るまで落ち着きなくバウンドを繰り返し、何をするにもおぼつかない。だから私は自然と不機嫌になる顔と声で、彼に応える。
「なんですか、暇なんですか」
 ぶっきらぼうな物言いも、彼の微笑を揺るがせない。どころか私が彼の方を向いたことに気を良くし、ますます笑顔だ。なるべくその笑顔を見ないように眉をひそめ、
「琴宮さん」
 名前を呼んでやると嬉しそうに目を細める。私は深く溜息を吐く。
 琴宮は車を降りて、優雅な足取りで近付いてくる。まるで舞踏会のダンスに誘う紳士のように。舞踏会なんて行ったことはないけれど、例えば小説にそんな場面を書くときは、彼の歩き方を参考にするだろう。私に向けて軽く振られる腕の形や、やあと微笑みかける口元なども。
 ぱりりと糊の効いたスーツはオーダーメイドかもしれないが、着て行くのはもっぱら殺人事件の現場なのだから勿体無い。いつ会っても死臭はしない。代わりになんだかよくわからない、良い香りがする。それを何と表現すれば良いのかわからないから、私の小説の登場人物達は皆無臭だ。一人だけかぐわしい香りを放つ名探偵。
 琴宮は微笑んで、また例の声で白瀬くんなんて呼ぶ。
「これから事件現場に行くんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「一緒に行かないかい。もちろん助手として。あるいは推理小説家として」
「どっちも御免です」
 にべもなく断ると琴宮は不服そうに口をとがらせる。その様子も多分、私はいつか書いてしまう。探偵として? いや、そんなことはできない、私が書く探偵は音野順だ。では犯人? ブラックジョークにも程がある。被害者? さすがに罪悪感に拒まれる。だって彼は私の小説を読んできて、あれって私がモデルだろうなんて言うに違いないから。
「私は音野の助手で、音野の活躍を書くんですから」
 多少の脚色はあっても。
 やけにきっぱりとした口調になったのは、その言葉が自分に言い聞かせるものでもあったからだ。
 驚いたように琴宮はきょとんと私を見つめたが、やがて愉しそうに口角を釣り上げると、ふうん? とからかうように覗きこむ。そんなことをしなくても、心はとっくにバウンドしていて戻る気配が微塵もない。本当に迷惑な人だ。迷惑すぎて多少のことなら受け入れてしまいそうになる。
「顔が赤いよ、白瀬くん」
 さあ行こうなんてこっちの話を聞きもしない、強引なのに押し付けがましくはない力で腕を掴まれるのもその一つ。私はもう一方の手で顔を隠すのに必死で彼を振りほどけないのだが、もしも小説に書くときには、きっとこう書くしかないだろう。
 ――『嫌よ嫌よも好きのうち』。
 だから絶対、私は彼を書かないと決めている。





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2014.1.11.
麻耶クラ土下座オフで書きました。
琴白の白瀬はツンデレですよね。
普段はそれをあしらう琴宮さんがときどき出される白瀬のデレに慌てたりするのが可愛いなと思います。
このお話は白瀬が頑張ってツンを貫くお話です。
短いですが、琴白クラスタさんへ日頃の感謝を込めて。