ずっと遠くで食器の触れ合う音がしていた。
 とくん、とくん。海の中にいるようだった。水の音がした。

(……そら、が、せまい。
 せなかがさむい。
 おとばっかりおおきい。
 ……つかれた。 )

 とくん、と耳元に寄せた手首から鼓動が聞こえた。緩やかなリズムが海の潮のように心地よかった。身を任せてまた深い眠りに落ちたかったけれど、聴覚を意識した途端に夢の中にいると気付いてしまって、飛び起きた。
 ベッドの中にいた。カーテンの隙間を縫って明るい光が部屋の中に射し込んでいた。目覚まし時計の代わりにしているケータイが見当たらない。机の上に置いた時計を見ると、出勤時刻はとうに過ぎていた。全身の血の気が引く音がした。
「……あ、笛吹さん起きたー」
 部屋の外からヒグチが覗く。エプロンをしていた。
「ヒグチ……っ」
 怒っているのか焦っているのか、自分ではもうわからない。ただヒグチに掴みかかっていったのに、ヒグチは一瞬驚いた顔をして、すぐににこーっと笑った。「おまえ……おまえ……!」「それより笛吹さんこっち来て!」強い力で俺を引っ張ると、リビングに連れて行って無理やりテーブルにつかせた。
「これすごいうまくできたと思うんだよね!」
「そ、それより……」
――― さっき筑紫さんに電話したら、午前中は休みにしていいってさ」
「え」
 なんとも間抜けな声が出た。きっと口をぽかんと開けていたのだろう、ヒグチがキッチンに向かいながら振り返って、俺の顔を見て噴き出した。その顔がなんとなくとても、(……かっこいい。)
 テーブルの上に目を落とす。砂糖たっぷりのフレンチトースト。飲み物はコーヒーじゃなくて牛乳。ああこれはおいしそうだ。フレンチトーストはもう一口サイズに切ってある。一つ口に入れると甘やかな香りが口内に充ちた。
「……おいしい」
「うん」
 何が楽しいのか、キッチンの中でヒグチが笑った。その声は鼓動よりも心地よく、何が楽しいのかわからないのに微笑んだ。いつの間にか鳩尾あたりからゆっくりと温かさが広がっているのを感じた。ヒグチがいて良かったな、と心から思った。










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2009.05.03.
笛吹さんはおつかれの様子なので
ヒグチがかっこよく癒してあげます。
笛吹さんにとってヒグチはいつでも王子様。


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