曇り硝子の戸を開き、むせ返るような緑の匂いに肺を満たす頃には、シモンの息は平常通りの落ち着きを取り戻していた。寄宿舎の食堂の裏から、学園の敷地の最奥にある植物園まで。走るのは嫌いではないし、おそらくはそう苦手でもない。けれど体格の良い同級生達がシモンを取り囲み、口々に責め立てるものだから、逃げるシモンの脚は焦りで縺れそうになり、追いつかれたらというおそれが余計に酸素を求めさせた。そういうわけでシモンが植物園に着く頃には肩で息をしているような有様なのだが、背の高い植物の間をすり抜け、色とりどりの花に目移りしながら奥へ奥へと歩むうちに、落ち着くことができるのだった。
 シモンがこの全寮制の学園に転入したのは、つい先月のことだった。落盤事故で両親を亡くし、孤児になったところを、慈善事業に積極的な理事長に引き取られたのだ。慣れないことばかりのシモンを、教師もよく気にかけてくれる。それがいじめの種になるのだからしようがない。校舎の奥に隠されて、訪れる人のない植物園を見つけたシモンが、入り浸るようになるのも必然のことだった。
 大きな熱帯植物の葉をかき分けると芝生があり、植物園の中心であるそこでぼんやりと天井の採光窓を眺め、日が落ちるのを待つのがシモンの日課にもなっていた。今日もそのつもりで葉を持ち上げると、先客がいた。
 乱れた青い髪。着崩した制服。第一ボタンまで留め、赤いリボンタイを結ぶシモンとは対照的に、ワイシャツは胸元で肌蹴られ、リボンは解けて垂れていた。黒いブレザーのところどころに葉がついているのも厭わずに、細い幹にもたれかかって、気持ち良さそうに眠っている。まだ幼さの残る顔立ちはシモンより二、三年ばかり年上なだけだろうが、年齢ごとに分けられた学び舎の中で、その年齢差はとても大きく感じられた。
 人がいた驚きに息を呑んでから、シモンはじりじりと彼に近づき、数分をかけて顔を覗き込んだ。本当に生きているのかしら? ここ数ヶ月、生きている人間とまともに喋った記憶がない。
「ふぁ……」
 唐突に彼が口を大きく開けてあくびをするものだから、シモンは飛びすさって、彼が眠たげに目をこするのを見守ることになった。
「誰だ、おまえ?」
 そう訊いた赤い目の彼は、カミナと名乗った。





 カミナも親類を亡くし、しばらく休学していたのだと言う。
「今はおまえと同じように、理事長の世話になってる」
と明るいカミナの笑顔に暗澹たる気持ちが押し寄せ、シモンは俯いて目を逸らす。同じ孤児でも、シモンとカミナじゃ全然違う。シモンはそんな風に笑えないし、そんな風に自分が孤児だと人に打ち明けることもできない。黙り込んだ相手を気にせず問いかけることも、シモンにはできない。
「それで、おまえはどうしてこんなところにいるんだよ、シモン」
「俺は、別に……」
「別にってこたぁねえだろう」
 しばらく渋っていたシモンだったが、カミナがあんまりしつこく訊くものだから、居直って言った。
「俺、いじめられてるんだ。孤児のくせに理事長や教師にちやほやされて生意気だって。俺はそんなつもりじゃないのに」
 カミナが息を呑んで動きを止める気配がしたので、これで満足かと意地の悪い気持ちで顔を上げた。予想ではそこにあるのは気まずそうな顔だったが、実際にはカミナはきょとんと目をしばたいてから、にっと笑った。その笑顔があんまり綺麗だったものだから、シモンは思わず暗い気持ちも忘れ、吸い込まれるように見つめた。睫毛が長い。
「孤児だとかなんとかかこつけて、おまえのことを見ない奴らのことは気にすんじゃねえ! 生意気上等! やられたらやり返してやれ、シモン!」
「そんなこと……できないよ! 俺はあんたとは違うんだ」
「うるせえ! 俺ができると言ったらできるんだ!」
 言ってることは無茶苦茶なのに、彼に言われると本当にできるんじゃないかと思えてくるから不思議なものだ。否定をためらった一瞬の隙を突き、カミナは強い視線でシモンを射抜く。
「いいかシモン。自分を信じるな。俺を信じろ。おまえを信じる、俺を信じろ!」
 なぜ会ったばかりの彼を信じてみようだなんて気になったのか、シモンには説明できない。
 味方がいない学び舎の中、信じると言ってもらえて嬉しかったのかもしれない。同じ孤児なのに凛とした彼の姿に、憧れを抱いたのかもしれない。何物にも怯まぬような強い光をたたえた赤瞳に、魅入られたのかもしれない。
 理由がなんであれ、シモンはカミナの前に頷いていた。
「うん。――カミナを、信じるよ」
 アニキって呼べ、とカミナは笑った。





 あのときカミナもいじめられて植物園に塞ぎ込んでいたのだと、知ったのは随分後になってのことだった。






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2014.06.13.
シモカミで寄宿舎で植物園。
カミナの口上が格好良いので、どうしても引きずられてしまう。