絶対に謝らない。
 一歩ごとに決意を固め、いまや天城の居室となった旧教授室へ向かう。
 三日前に些細なことで喧嘩して以来、拗ねた彼は世良を避けているのだ。
 まるで子供だ。
 外科には天才的な技術を発揮するくせに、日常生活を送るための様々なものさしが壊れている天城は、世良には時々酷く幼く思える。
「天城先生、いるんでしょう? 世良です。入りますよ」
 とんとんとん、とリズミカルにノックして、返事を待たずに中へ入る。分厚いカーテンで遮光された部屋の中は暗く、世良はすぐに電気を付けた。
「先生?」
「こっちだ、ジュノ」
 いつも彼が座っている机に姿はなく、けれど聞こえる声に従って見回すと、ソファの陰から飛び出た腕が視界に入りぎょっとする。黒いシャツの裾から覗く手首が、病的に白く見えた。世良に手を振るわけでもなくふらふらと揺れるのも彼らしくない。慌てて駆け寄り握ると、ひんやり冷たい。
「どうしたんですか」
「……腹が減った」
 右手を世良に委ね、大儀そうに目を閉じて天城は言う。ずっと食べてないんだ。
 世良はきょとんとして、その言葉の意味を咀嚼する。ずっと? 三日前、喧嘩する前に一緒に昼食を食べてから、ずっと?
 改めて天城の顔を見ると、頬のあたりが少し円みを失ったかもしれない。握った手も、以前より小さく感じる。指が細い。
「馬鹿だ」
 言うと無邪気に彼は笑った。



 結局、世良から謝った。もう何が原因で喧嘩していたかも覚えていなかったから、「すみませんでした」と端的に。
 すると天城はくるりとスプーンを回して、「ジュノが悪かったんだったか?」と首を傾げる。知りません。
 憮然とした表情の世良を前に、天城はにこにこしながら銀匙を口に運ぶ。
 もう四時を過ぎていたが、二人は東城大の地下食堂で向い合って座っている。謝るついでに定食を奢ることになったのだった。モンテカルロで豪遊三昧の日々を送っていた天城の口にも、ここの食事は合ったらしい。
 周りは昼食時ほど混んではいないが、それでも食事をとる人の姿がちらほらと目に入った。
「ジュノがなかなか来てくれないから、すっかりやつれちゃったよ」
「自業自得です」
「……ジュノ、最近私に厳しくないかい」
 スプーンを持つ手を止めて、下から疑り深い眼差しで覗き込まれる。世良は溜息混じりに言い返した。
「理由は自分の胸に聞いたらいかがです」
「私の? どうして?」
 先程の無垢な笑みとは一点、意地悪く口角を上げた微笑みを、天城は浮かべる。
「やっぱり私が悪かったのかな? 謝ろうか」
「結構です。なんで喧嘩したのか忘れましたから」
「ジュノ、自分が悪くないときに謝ってはいけないよ」
 こんなときばかり上司面をするのだからたまったものではない。それともこれがエスプリというやつだろうか。ずっと外国にいたせいか、天城の感性にはフランスやモンテカルロの気質が強く影響しているように思う。いや、そちらでも彼は浮いていたんだったか。孤高のわがままサージョン。どこにいても彼は変わらない。
「じゃあ天城先生が謝って下さい」
「謝らないよ。だって私も悪くないもの」
「いえ、今回の喧嘩の原因は天城先生です。領収書もらってきて下さい」
 今回の、というか今回も、というか。世良と天城はたまに喧嘩をするが、原因は天城にあることが多い。
 言ったきり定食の消費に専念することにした世良を前に、天城はきょとんとして動きを止める。
「領収書?」
「先生が領収書の切り方を知らないからって、俺が事務長に怒られるんですよ。それが喧嘩の原因でした。今思い出しました」
「……ああ、そういえばそうだったな」
 たっぷり五秒は考えて、天城が答えた。普段レスポンスの速い彼にしては、鈍い。彼は興味のないことはあまり覚えない。その割に、言えば思い出すことはできる。便利な脳だなと思う。
「ジュノがやってくれ。私はそういうの苦手だ」
「苦手とかそういう問題じゃないんですよ。ちゃんと覚えて下さい、簡単ですから。大体、俺が管理できない場合もあるでしょう」
「ないよ。だっていつもジュノが一緒にいてくれるじゃないか」
 天城はあっけらかんと言い放つ。今度は世良が動きを止める番だった。
 確かに、ジュノ、ジュノと呼ぶ声を聞かない日はない。そして世良のことをそう呼ぶのは天城だけだ。
 戸惑いを気付かれる前に、前よりも速く箸を口に運んでいく。
 なんだか喧嘩したときと同じパターンな気がする。前回は何と応えたのだったか? 世良には思い出せなかった。きっと思い出しているに違いない天城はヒントすらくれない。
 優しくないのだ、この人は。
「……わかりました」
 最後の一口を咀嚼し終え、世良はやはり溜息と共に応える。
「天城先生の領収書の管理は全部俺がします。だから天城先生は俺のいないところでお金を動かさないで下さい」
「いかなる場合でも?」
「いかなる場合でも」
「困ったな。財布の紐を握られるのは嫌いなんだ」
「ギャンブルも禁止ですよ。大体日本にはカジノがないんですから、モンテカルロのようにはいきません」
「カジノがないことが日本の欠点だな」
 軽く肩をすくめる。その何気ない動作まで、いちいち様になってしまうのが天城だ。彼はそのままにいと笑った。
「でも私にはジュノがいるもの。遊んでくれるだろ?」
「俺はもうモナコ硬貨を持っていません。天城先生との勝負はできませんよ」
「それじゃあ、お金以外を賭ければいい。例えば次の休日とかね」
 天城はウインクで世良の言葉を封じる。
「ジュノ、賭けに勝ったら何が欲しい?」
 じっと覗き込まれる。心の奥まで見透かすような彼の瞳に前触れなく晒されて、ガードが遅れた。世良の脳裏に、きらびやかなサル・プリヴェが甦る。回転するルーレット盤を見詰める天城の瞳。華奢なグラスを支える指先。ピンク・シャンパンを舐める唇。
 シャンス・サンプル。彼が欲しい。
「ジュノ」
 声音で天城が唆す。世良は口を開いた。
「俺は……」
 そのとき、天城を無遠慮に見る他の医師の視線に気付いた。彼らは天城の後ろを通り過ぎざま、世良にも遠慮のない視線を投げかける。
 ――― あれが、この前公開手術をしたっていう。
 ――― 若いのはお守役なんだろ。
 廊下トンビの囁きにはっとして、瞬きをして天城の視線の磁力から逃げ出した。見慣れた食堂の光景を知覚して、その眩しさに、もう一度目をしばたく。
 天城といると、時々、自分がいる場所を忘れそうになる。自分が何者で、何をしなければならないのかさえ。
 ジュノの情熱が私の原動力だ、と天城は言う。けれどその情熱を世良に植え付けたのは、露わにされた心臓の上で踊る天城の指先であり、世良だけに明かした天城の医療への真摯さだ。彼しか持たないそれらはあまりにも強烈で、世良が目を逸らすことを許さない。
 けれどここは東城大の地下食堂で、周りにはまだ人がいる。世良は答えを飲み込んで、誤魔化すために空咳をしてみせた。
「賭け事は禁止です」
 その答えがわかっていたかのように、天城はただ肩をすくめた。





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2012.06.19.
海.堂.尊先生の『ブレイズメス1990』から、世良×天城=せらまぎです。
『極北ラプソディ』で天城先生のことを語る世良ちゃんにしびれました。