そらくん、と彼は僕を呼ぶ。
「ねえ曽良くん、ほら、綺麗だね」
 指差す先には、春の空に蝶がひらり舞う。
「ええ、綺麗ですね」
 僕は同意し、彼が横に並ぶのを待つ。
 もしかしたらそのまま蝶を追いかけてどこへとも行ってしまうのではないか、と僕の心配は杞憂で、彼はそれ以上僕から離れようとはせず、遠ざかる蝶を名残惜しそうに見るに留めた。
 彼は心に留まったものを僕に逐一見せようとする。そらくん。弾む彼の声音で何かを見付けたのがわかるので、僕はまず芭蕉さんを、次に彼の視線の先に目をやる。それは今のように蝶々だったり、路傍の花だったり、おかしな形をした雲だったりする。僕が気付かないものを一つひとつ掬いあげては、彼は僕の前に惜しげなくそれを広げる。
「芭蕉さんは」
と、旅に出てすぐの頃、訊いてみたことがある。
「何か見付けると必ず僕に教えますね。何故ですか」
「なんでって……」
 うーん、とわざとらしく唸って考えるようにした後、彼は晴れやかな笑顔で云った。
「君が私と同じように感じてくれたら嬉しいし、違うならさ、君がなんて思うか知りたいから」
「……僕がなんと思うか、気になるんですか?」
「え? うん? そりゃそうだよ」
 なんでそんなこと訊かれたのかわからない、という表情で芭蕉さんは小首を傾げる。
 僕の気持ちを彼が気にする。
 彼はすぐに自分の気持ちを口にする。僕は滅多に感情を表に出さないが、彼がそれを気にするのだとは露とも思ったことがなかった。
 そもそも、芭蕉さんはあまり人の気持ちに対して細やかに慮ることが出来ない。特に自分の言動が他人にどう思われるかということについては、ほとんど意識の外である。彼はどこか一人で完成されているように感じることもしばしばあった。
 けれどそうではないのだと、この旅で僕は理解し始めた。
 おそらく芭蕉の懐はとても広い。彼は好んだ人間にならば、何をされてもきっと許してしまう。それは物騒な世の中では危機感に欠けた性格だったが、芭蕉の優しさであることだけは確かだった。彼は拒まず、受け入れることで、他人とコミュニケートする。
「曽良くん」
 また芭蕉さんが呼ぶので、僕は横に並ぶ彼に目をやる。にこにこと、口角を上げ、下唇を隠すように笑む様はどこか愛おしい。
「春っていいよね。動物も植物も元気になるし、過ごしやすいし」
「そうですね」
「松尾、春って大好き」
 好き。
 僕の芭蕉さんへの思いはきっとそういう名前をしている。もしも伝えたら、彼はそれさえも受け入れるのだろうか。すぐには難しいだろうが、少しずつ伝える準備をしてもいいだろう。
「ええ、僕も好きですよ」
 春も、あなたも。










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『ドライアイスセンセーション』『懺悔の値打ちもない』の続き。
『懺悔』の後すぐに曽良くんは恋を認めました。
弟子は師匠の逃げ道を塞いでから狩りに行きます。


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