たとえば今ここで君を後ろから抱きしめたなら、なんて想像をしたものだから、つい笑ってしまって、声は出さなかったのに君は振り向いた。
「誰か、いるのか」
「いるよ」
 もちろん僕の声は君に聞こえない。君は軽く頭を揺すり、また実験台の冷たいビーカーやフラスコに向いた。僕は幽霊で、少し寂しい。君に逢うのもこれが最後だ。――― 僕の女神はリリーだけれど、セブルス、君は最後まで、僕の恋でした。
 学生の時より少し伸びたその黒髪に触れようとしてためらい、僕は手を下ろした。こんな風に君に触れようとすることはなかった。もしあったなら、なんて想像を君は嫌っただらうから僕が代わりにしてあげる。――― もしあったなら、二人笑い合う日もあったでしょう。
「もういくよ」
 そろそろ朝日が昇り、君は僕の死を知る。君は泣いてはくれないだろうけど、笑っても僕は憎まない。君に触れなかったことを、君が泣かないことを誇りに思い、僕は死ぬのだ。
「さよなら」
 たった四文字の言葉で僕は急速に世界から遠退き、暗闇に追われて視界は狭まってゆく。とうとう何も見えなくなる寸前、君が振り返って僕を見たのは、死人の夢か。
 見つめあうことなんてなかったのにね。
 僕は少し笑い、そして世界は消えた。










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2006.01.26.
あの日の夜。


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