他人との共同生活の経験はあっても家族との共同生活の経験が浅い二人がつたない同棲生活を始めるにあたり、いくつかの決まりを作った。
 そのうちの一つが、一緒に夕飯を食べることだ。どんなに忙しくても、喧嘩をしていても、一緒に夕飯を食べる。そして夕飯を食べた後はソファでごろごろするのが、決めてはいないがルーチンに組み込まれ、日常の一部になっていた。肩を寄せたり、膝枕をしたりしてもらったりしながら、ラグナの髪をくすぐったがったり梳いたり引っ張ったりするジンが、微笑んでこう言うのも。
「兄さん、お風呂入ってきたら」
 長年野宿してきたラグナは最初自分の体が臭うのかと危惧したが、世界が平和になってからというもの毎日風呂に入ることもでき、充分清潔のはずである。単にジンの中で習慣となった言葉なのかと思うと、それでいて言わないときもある。油断している頃にふと言われる。そもそもジンがラグナに寄せる執着を考えれば、一緒に入ろう兄さんと迫ってきてもおかしくない。
 だからラグナの方から誘ってやった。
「おまえも」上半身を脱ぎながら、さりげない風に持ちかける。「おまえも一緒に入ろうぜ、ジン」
 実際、ちょっとした気まぐれに過ぎなかった。昔は教会で一緒に風呂に入った。裸の付き合いという言葉もある。というかベッドの上で既に関係を持っている。今更兄弟二人で風呂に入るくらい、なんの問題もない。
「え」
 ところがジンは言葉を詰まらせ、ラグナを振り返ったまま固まった。ソファの上で像のようになっている。
「……? んだよ、どうせ後で入るんだから同じだろ。それとも俺と一緒には入れないってのかよ」
 露骨に顔を顰めたラグナに、ジンは慌てて首を振る。
「そういうことじゃなくて!」
「じゃあ、どういうことだよ」
「いや、それは……」
 歯切れが悪い。ラグナと同じ、二つ揃った緑の目はこちらを向かず、カーペットの上でのの字を書いている。照れているときにはわかりやすく赤くなる頬は白いままで、ラグナと入浴するのに恥ずかしさを覚えているわけではないとわかる。
 ならば一体何が理由だというのか。
 ラグナは考えるのが苦手なのだ。
「だーっもう、本当めんどくせーなおまえは!」
 がしがしと頭を掻いてジンに歩み寄り、その腕を強引に掴みあげた。ソファから引き揚げられたジンが、身を瞠ってラグナを見上げる。緑の瞳にラグナが映り、それがとても不機嫌な顔をしているのが見えて、ラグナは思わず舌打ちをした。怒りたいわけではなかったのに。
 目を逸らし、ぶっきらぼうに続ける。
「風呂入るぞ、ジン」
 強く引かれて、ジンは抗議するように小さな声で兄さんと呟いたが、それ以上は何も言わない。風呂場と繋がった脱衣場まで連行すれば、観念したかのようにゆるゆると服を脱ぎ始めた。先に上半身を脱いでいたラグナが先に脱衣場を後にし、冷えた浴室を湯で温める。外気の冷たさゆえすぐには温まらず、浴室に入ってすぐ目の前にある鏡も曇らない。浴槽の外に置かれた小さなスツールに座り、ラグナは自分の体を洗い始める。洗い終わる頃になってようやく、ジンが声をかけてきた。
「……兄さん、入るよ」
「おう」
 ちょうど良いタイミングだ、とラグナは泡で覆われた自分の体を洗い流し、浴槽の縁を乗り越えて湯に浸かる。熱過ぎるくらいがラグナの好みだ。体の芯までじんわりと温まり、湯の中で手足がほぐれていくのを感じる。心地よさに目を閉じている間に、ジンが入ってくるのが気配でわかった。
「ったく、何がそんなに嫌だったんだよ、ジ……」ぼやきながら見上げたジンの姿に、先程の彼のようにラグナは固まる。「……おい、なんで目つぶってんだ」
 え、とラグナの方を振り向いてから、ジンは目を開いた。睫毛についた水滴が重たげに落ち、かえってその繊細な造形を伺わせた。濡れそぼった金色の髪が額に、頬に、うなじに張り付き、息を呑むほど綺麗だ。ラグナの視線にさらされて、ジンは目を伏せる。
「そんなに見ないでよ、兄さん」
「あ、悪い。……いや。じゃなくて。風呂場で目をつぶったまま歩くなよ、危ないだろうが」
 確かにジンの身体能力は高いが、床は濡れているし、裸になれば気も緩んでいるだろう。転んだらどうするのだ。
 ラグナが本気で心配しているというのに、ジンは素っ気なく答える。
「転ばないよ。全部覚えてるし、感じ取れるから」
 再び目をつぶってスツールに座ったジンは、見えないはずの視界を、まるで見えているかのように手を伸ばしてシャンプーを手に取り、泡立てて髪を洗い始める。シャワーの栓を止める様子からも再び開けて髪を洗い流す様子からも、目が見えていないとは思い難い。髪には一つの泡も残っておらず、研ぎ澄まされた彼の感覚の精度を知る。戦場以外で役に立てるべき感覚とも思えなかったが。
 釈然としないまま、ラグナは浴槽に体を沈める。
「疲れるだろ、それ。風呂場でくらい気を抜けよ」
「気にしないで。僕にはこれが普通だから」
 よそよそしいジンの声と、口調だった。かちんと来て、気付けばラグナは食ってかかる。
「おい、そんな言い方ないだろ。せっかく心配してるってのに……」
「頼んでないよ。大体、都合のいいときだけ兄さん面してさ。普段は僕のことなんか心配してくれないくせに」
「はぁ? なんだよいきなり拗ねて」
 ちょっとした疑問から発した気まぐれだったのに、なぜ風呂場で兄弟喧嘩をしなければならないのか。まだ始まってもいないのに、既にうんざりしてきた。
「拗ねてなんか!」ジンはきっとラグナを睨み、「……だから一緒に入りたくなかったんだ」
 濡れた前髪の先から垂れる雫が涙のように見え、ついたじろぐ。気勢を削がれて、いっそ心配になってきた。激昂したかと思えば塞ぎ込む、この情緒不安定さにはいつもはらはらさせられる。大抵はラグナのせいというか、ラグナのことでなければジンはこれほど揺り動かされたりしないのだから。
 待てよ、とラグナは思考を振り返る。
 ということは、ジンのこの奇妙な習慣も、ラグナのせいなのだろうか。
「なあ、ジン。俺、また何かしたか?」
「……」
「おい。ジン。機嫌直せよ。おまえに無視されると、兄ちゃん結構こたえるんですけど」
「…………サヤに似てるから?」
 思わぬ反撃に、ラグナは浴槽の縁についた肘を滑らせた。「……え?」
「金髪だし、両目とも緑だし、女顔だし」
 開き直ったように大きな声で連ねながら、ジンは目を開け、曇った鏡を掌で拭った。ラグナからは見えないが、ジンからは、そこに映った自分が見えるだろう。唇を釣り上げ、自嘲気味に笑う。
「似てるよね、僕とサヤ。僕と兄さんは似てないのに」
「いや、おまえとサヤも全然似てませんけど」
 髪や眼などの要素ごとに取り出してみれば確かに同じだし、他人から見れば充分に似ていると言えるのだろう。けれどラグナは彼らの兄なのだ。似てはいても全然違う。ジンはジンだ。
 言ったことはなかったけれど、ジンの顔がラグナは好きだ。ときどき彼よりも早く起きた朝に見る寝顔には美味しい朝食を作ってやろうと思うし、ラグナが何気なく触れたときに、照れたように眉尻を下げた笑顔には優しい気持ちになれたりもする。ぼうっとしているときの無表情は自分の弟とは思えないくらい美人だし、夜に見せる切羽詰まった表情を自分だけが知っているのは優越感を覚えずにはいられない。
 そんな彼の顔に妹を、誰かを重ねるなんて、あり得ない。
 ラグナの気持ちなんて聞こうともせず、ジンは鏡の中の自分から目を逸らし、諦めたように溜め息を吐く。
「気を使ってくれなくてもいいよ、兄さん。――鏡を見ないのは、自分の顔が嫌いだからだよ。本当は焼きたいくらいだけど、兄さんにも、ちょっとは似ていると思うから」
 そんなとんでもないことを、ちょっと良いエピソードみたいに恥じらって言われても困る。
 何と反応すれば良いのかわからず口ごもったラグナの前で、ジンは体の泡を洗い流して立ち上がる。
「じゃあ、僕はもうあがるね。兄さんも、湯あたりしないように気を付けて」
 衝撃的な置いてけぼりを食らったせいで、動作からはいつもの切れが失われて緩慢になる。ラグナが風呂を上がってジンの部屋に向かうと、既に電気が落とされ、ジンは布団を被っていた。
「……おい、ジン」
 呼んで、布団の先からはみ出た頭頂部を、指先で撫でる。肩にタオルを引っ掛けて濡れたままにしているラグナと違い、ジンの髪はしっかりとドライヤーで乾かされていた。ドライヤーは洗面台に置いてあるのに、きっとそれも、鏡を見ずにかけたのだろう。
「ジン。起きてんだろ。……まあいいや。黙って聞いてろ」
 不必要なまでにひそめられた寝息が、狸寝入りを教えている。ラグナは溜め息を吐いて、ゆっくりと金の髪を指に絡めては、くるりとほどけるのに任せた。
 こういうことを言うのは苦手だ。でも言わないと伝わらないのだから、本当に面倒くさい奴だと思う。思い込みが激しくて無駄にポジティブなのに、サヤについてだけは頑固にネガティブだ。
 二人暮らしを始めるにあたり、ラグナはジンに言わず、自分の中でだけ決めていたことがある。――それも含めてジンなのだから、とことん付き合ってやる、と。
 ジン、とできるだけ優しく聞こえるように呼びかける。
「おまえとサヤを重ねたことはない。おまえの、ジンの顔が好きだ」
「顔だけ?」
 布団の中からジンの手が飛び出し、ラグナの腕を掴んで引き寄せるように押し倒した。冬用の分厚い掛け布団がクッションになってくれたが、強かに打った肩が痛い。唸って怒鳴りつけようとすると既にジンはラグナの上に乗り上げていて、その手がラグナの肩を押さえている。暗くて顔はよく見えない。
 ラグナを見下ろし、ジンが訊く。
「僕のこと好きって、顔だけ?」
 本ッ当にめんどくせえなこいつは、とラグナが顔を引きつらせる隙に、ジンは続ける。
「僕は兄さんの好きなとこ、たくさんあるのに。いつも睨んでるみたいなのによく見ると優しい目とか、男らしくてごつごつしてる指とか、たくさんまめが潰れたてのひらとか、厚い胸板とか。――硬い髪をいじるのも好きだけど、兄さん、髪が濡れるとぺたんてなって可愛いよね」
「おまえ、だから俺のこと風呂に入れようとしてたのか」
 うん、と弾んだ声でジンは頷く。
「……」
 あまり知りたくなかった理由だった。
「髪とか、目とか」
 ジンは言いながら、額に、まぶたに口付ける。「見た目だけじゃなくて、優しくて甘くてどうしようもないくらいお人好しなところも、口が悪くてぶっきらぼうなのになんだかんだで面倒見がいいところも。好きだよ、兄さん」
 まあそういうところが殺したいほど憎らしかったりもするんだけどね、なんて冗談なんだか本気なんだかわからないことを言いながら、それでも甘い声がラグナの顔から胸へと、首筋を通って降りていく。拗ねていた延長線上、甘えるように唇を落とすジンの髪を、ラグナはくしゃりと撫でた。ん、と上目遣いに見上げるジンの顔を、暗さに慣れた目は容易に捉える。ラグナのパジャマ代わりのTシャツをたくしあげている顔は、造りこそ女性的だが紛れもなく男の顔だ。にこっと笑う顔が憎たらしいほど可愛くて、ちくしょう、とラグナはやけになって言ってやる。
「おまえの顔も、体も、すげー綺麗だと思う。髪が陽に透けてきらきらしてると見蕩れるし、でもいつもより多めに跳ねてるの見ると笑っちまう。統制機構の制服はよく似合ってた。あと、おまえたまに和服着るだろ。あれそそる。また着ろよ、ジン」
「明日から毎日着る……!」
「やめとけ。風邪引くだろ」
 ラグナは着たことがないが、裾の広がった和服はこの季節には寒そうだ。
「うう……」
 獣のように、ではなくむずがるようにジンが唸って、にやにやと見詰めるラグナの口元に噛み付いた。よく見えない視界の中でタイミングが合わなくて、がちん、と歯がぶつかる。
「いてっ、てめ、ジン! 目ぇつぶったまま風呂入れるなら、こういうときにもうまくやれよ!」
「無茶言わないでよ兄さんの馬鹿!」
 なんだとてめえと怒鳴り返そうとしたラグナの口を、今度はキスに相応しい速度で、ジンが塞いだ。





 翌朝、ラグナが目を覚ますと既に隣にジンの姿はなく、顔を洗うために洗面所に向かって行くと水音がする。部屋で確かめた時計は既にジンの出勤時間を過ぎていたが、他の人間がいるはずもない。
 訝しみながら洗面所を覗きこむと、和服を着たジンが鼻歌混じりに、顔から滴る水をタオルで拭っていた。
 目はしっかりと開かれて、洗面台の鏡を見ている。自分の顔など嫌いだと鏡から目をそらしていたジンが、明るい光の中で機嫌良く、鏡に向かって笑顔を浮かべていた。
「…………」
 その光景を、ラグナは何も言えずに見詰めた。目に見えるジンの変化が尊くて、今この瞬間をずっと覚えていたい。立ち尽くしながら想うのは昔の記憶ではなく、明日も明後日も続く、この日常の温かさだった。
「あっ、おはよう、兄さん!」
 気配に気付いたジンに照れたような顔で笑いかけられ、止まっていたラグナの時間が動き出した。微笑んでおはようと言いながら、声をかけずに盗み見していたのが少しきまずい。聞かれるより先に聞いてしまおうと、ラグナはジンの服に目を留めた。
「着なくていいって言っただろ」
「だって、あんなこと言われて着ないわけにいかないよ。大丈夫、全然寒くないから」
「そうか? ならいいけど」
「ねえ、兄さん」
 するりと、ジンがラグナの腕に腕を絡めた。上目遣いと甘い口調が、起きたばかりのラグナの体を誘う。
「……そそる?」
 ラグナはジンの体を見下ろし、足の爪先からつむじまで、ゆっくりと視線を滑らせた。それから期待するようなジンの瞳に溜め息を吐き、ジン、と重い声で名前を呼んだ。
「はい、兄さん」
「仕事は?」
「……や、休んじゃおっかな」
 二人暮らしをするにあたり、決めたことはたくさんある。その一つが、ラグナは家事をさぼらないこと。そしてジンは、きちんと仕事をすること。
 蠱惑的だったジンの笑顔は、今は許しを請うように気弱にラグナを見上げている。そんな弟ににっこりと笑いかけ、ラグナは握った拳をごつんと、容赦無い速度で振り下ろした。





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2014.03.09.
まだまだ続くジンラグ同棲設定。同棲設定大好き。
同棲するにあたり二人が作った決まり事と、自分の顔が嫌いで鏡が見れないジンの話。
ブレイブルー全編が終わった後を想定しているので、ジンがやわらかめです。兄さんも素直。