見学の約束をとりつけて沼田先生の研究室に伺ったのは、研究室を選ぶには少し早い、二年次の梅雨の頃のことだった。
 昼過ぎからの雨が一向に止む気配を見せず、ばらばらと窓ガラスを叩いて耳障りだった。校舎の中で雨を避けても、避ける場所のない湿気が不快感を煽る。雷が鳴り、暴風警報が出されて校舎から殆どの人が失せた今、約束を守るという一心で暗い廊下を進んだ。やがて一つだけ明かりのついた部屋に沼田研究室の字を見つけ、安堵して扉を叩いた。
「失礼します、見学に伺いました蓮見と申します」
「あ、空いてるから入っていいよ」
 どうやら沼田先生のものではない声で応答があり、とりあえずは従って扉を開く。書物の散乱した部屋の中、扉の正面に位置する机に座ってこちらを振り返ったのは、
「いらっしゃい」
 白い髪に紅い瞳。異形と呼ばれる容姿だったが、元来見た目に頓着しない蓮見はすぐに冷静を取り戻した。――― 誰だろうか。この部屋にいる以上、先生の門下生であることは間違いない。
「はじめまして、僕は一ノ宮勘太郎。この雨で沼田先生は帰っちゃってね、僕は君にまた今度来てもらうように伝える伝言役というわけ」
「そうなんですか…」
 考えてみれば、相手が約束を守る義理はないし、第一この天候ならば仕方のない話だ。一宮と名乗った男は身軽に机を降り、躊躇いなく近づいてきてじっと見詰めた。
「ふうん」
 近い。
「ハスミ? どんな字書くの」
「蓮を見る、です、一宮先輩」
「僕は留年してるからすぐに君の先輩じゃなくなる。留年するような馬鹿は嫌いだろう?」
「そんなことはありません」
「そう? 僕は嫌いだけどね。ああ、じきに僕のことは呼び捨てにしたくなるだろうから、今からそうしていいよ」
 傍若無人で自分勝手。人を振り回して楽しむことを認めて罪悪感を覚えない。それが蓮見の抱いた一宮勘太郎への印象だった。それとも、罪悪感すら楽しむことができるのか。圧倒的な雰囲気に飲まれ、つい口が、滑った。
「……一宮」
「そうそう、その調子」
 あははと快活に笑って、その顔はまるで子供のよう。口調とまったく釣り合いがとれていないのが、なんだかとても不安定だった。強い雨風が古い建物を押し、振動が天井から吊り下がった電球を揺らす。その度に作られる陰影が、更に歪な印象を与えた。――― 帰ろう。
――― 沼田先生もいらっしゃらないことですし、失礼します。後日改めて、」
 一刹那、閃光が世界を切り裂く。
「蓮見、鬼喰い天狗って知ってる?」
 そして雷鳴が轟いた。
「オニクイ―――?」
 会釈のために下げた頭を戻して見れば、数多の雷雲に混沌とする空を背景に彼は云った。
「鬼喰い天狗。僕は彼を探してるんだ」
 その口調はまるで、宣誓するような。
 まるで別れた家族を探すかのように神聖な宣誓。発祥地などを求めているようには聞こえなかったが、蓮見にはますます世迷い言としか思えなかった。天狗を含め、妖怪は想像の産物でしかないというのに、何を云っているのだろう? 辛うじて礼儀を保ち、言葉を返した。
「……いえ、知りません」
 気付けばこの部屋までもが暗い。さっきの雷で電気が落ちたのだろうか。暗闇の中で彼の輪郭がすっと手を伸ばし、肩に触れたような重みを感じたと思うと、その柔らかな人体特有の感触が唇に触れた。
「……!」
 思わず闇雲で突き飛ばすと、おそらく重なり合った本が崩れたのだろう音と、「いたた」と彼の声が続いた。
「なにを……!」
「沼田先生にもう一つ云われたことがあったんだった」
 静かな、方向感のない声が闇を漂う。
「あまりいじめるなと云われたんだけど。蓮見の顔を見てたらつい」
「貴様……っ」
「そうそう、その調子」
 今度はくすくすと一宮が笑う。その顔は見えないけれど、声はまるで子供のようで。
 鳥肌が立つのがわかった。雨風による寒さばかりが原因でないのは明白だった。――― 帰らなければいけない。
 乱暴に扉を求め、追われるように廊下を走った。稲妻が空を貫き全てを破壊し尽くそうとしていた。心音に似た雷鳴は止まず、その轟音はあまねく天地に崩壊を知らせた。大地の崩壊は雷鳴が告げ、基督教において終末を知らせる楽音は天使が鳴らす。自分の中で何かが終末へ向かい始める音を蓮見は確かに聞いていた。終焉を求めてその音を鳴らしたのは彼だ。その熱い体温が触れた場所がおそらく終わりの始まりの場所だったのだと、空が光る度にその感触が甦った。





 次に会ったのは、研究室に入る四年次の春だった。柔らかな春の陽のもとで、彼はにっこりと笑った。
「あんなにいじめておいたのに」
 緩やかに進む筈の終焉が、今は近い。










-----------------------------------------------------------------
2009.06.18.
蓮勘学生時代出会い編。
蓮見は心が綺麗なので、
そんな蓮見になら嫌われたい勘太郎と
驚き過ぎて恋に落ちた蓮見。


■back■