羽化を待つ







 怠惰、という言葉が、木更津は嫌いらしい。
 大学時代に知りあって以来、軽蔑めいた表情と共に彼の口からその言葉が吐き出されるのを、何度聞いてきたことだろう。大半の人間の人生において怠惰の絶頂期である大学時代ですらこの調子である。ストイックな彼の性格が伺えよう。
 だからその日、木更津探偵社を訪れた私が驚いたのも無理はないだろう。私が開ける筈だった扉の向こうから現れたのは、他ならぬ木更津だったのだから。初夏という季節と、徐々に暗くなりつつある空を考えれば、これから依頼人の元へ向かうとも考えづらい。しかし、ちょうど就業時間が終わったところではないだろうか? いつも夜中近くまで事務所に残る木更津にしては異例のことだ。
「もう帰るのかい?」
「ああ」
 木更津はややぶっきらぼうに答えて、私の横をすり抜ける。そしてちらりと私を振り返り、着いて来ないのかと目顔で問うた。
 木更津にとって、私は呼ばれなくても彼に着いて行くべき存在らしい。しかし勿論、それが私の助手としての存在意義でもある。まったく助手冥利に尽きることだ。もっとも、私が勝手に助手を名乗っているだけなのだけれど。
 私はポーズとして肩をすくめると彼に続き、今しがた上ったばかりの階段に足をかけた。



 外気はぬるりと私の頬を撫でた。ポロシャツを着ただけの私と異なり、木更津はカッターシャツの上にサマージャケットを着ている。私でさえ暑いのに、木更津が汗一つかかないのはどういうわけだろう。
 木更津に誘導され、私達は川縁を歩いた。昼間の暑さが引いて、幾分過ごしやすい。
「今日はいつもより早いじゃないか。腹でも減ったのかい」
 仕事熱心な木更津は、調査に熱中するあまり食事を忘れがちだ。私はそんな彼に健康的な食事をさせるために、週に何度かは木更津探偵社へ向かうのが習慣になっていた。今日も夕食どきを狙って来たのだが、どうも様子がおかしい。
「いや」
 答える木更津はやはり素っ気ない。事件に対して頭を働かせているときにもしばしばこんな返事をされることがあるが、それとは少し違う。だんだんと不安になってきた。
「何かあったのかい。私で良ければ相談に乗るよ」
 横から顔を覗き込むと、端正な顔をむすっと歪ませている。無表情に徹していないのは、彼なりに私に気を許してくれているということなのだろう。もう一押しして欲しい、というところだろうか。
「僕じゃ力不足かもしれないけど、話を聞くくらいはできるつもりだよ。守秘義務は守るし」
「……守秘義務に関わる話ではないよ」
 ふうと溜息混じりで木更津が言う。やっと口を割った。さながら天の岩戸を開けたような達成感だ。ここで私が口を挟んでは、また岩戸が閉じてはしまうかもしれない。私が黙っていると、思惑通り、木更津は少し躊躇った後に続ける。
「父の探偵社は、依頼人を選ばない。本当に私の力を必要とする事件に携われない一方で、私は誰にでもできる調査を引き受けなければならない。そうしている間に、いくつもの事件が闇へと葬り去られてしまう。捕まえられたかも知れない犯人が、平気な顔をして市井に暮らす。はっきり言って」
 自分の中の気持ちを整理するように、木更津は一度言葉を切った。
「苦痛だよ」
 その目が一瞬、冷たい怒りを宿した。自分の好奇心を満たすためではなく、あくまで犯罪を取り締まれないことに怒りを感じる点が、なんとも木更津らしい。
 木更津は、彼の父が運営する興信所の一社員だ。その一方で、元来持ち合わせた資質を活かし、巷間から信頼を得ている名探偵でもある。しかし今のところ、彼のそんな才能を評価しているのは私だけで、彼の父を含めた世間の人々は彼に相応しい活躍の場を与えようとはしない。最近では府警の辻村警部が木更津の手腕に気付きかけている節はあるが、まだ融通を効かせてくれるほどの関係は築けていないのが現状だ。新聞などで興味を引く事件を見つけても、その捜査に加わることができず、事件を迷宮入りさせてしまう苛立ちは、木更津の中に静かに積み重なっていたらしい。
「独立して、君の探偵事務所を持てばいいじゃないか」
 私が簡単に言うと、木更津はいつもの薄ら笑いを浮かべた。こちらを馬鹿にする表情。彼の悪い癖だ。心情を吐露したことで、それくらいの余裕は取り戻したらしい。
「私も、早く独立したいのだけれどもね。父はまだ私にいて欲しいらしい」
 どうやら事の発端は、自立した探偵社を持ちたい木更津と、まだ手を貸して欲しい木更津の父との喧嘩のようだ。つまり、親子喧嘩。思っていたより平和な事態だ。私が心配する必要もないだろう。
 私は内心で安心したのを気取られないように、注意深く答えた。
「それは、君が優秀な社員だから仕方ないんじゃないのかい」
「そうだろうね。でも、子供はいつまでも親のものだと父が思っているのも確かだよ」
 そう怒っている自分自身もまた子供らしいということを、木更津は気付いているのだろうか。気付いていてなお止められない衝動に、身を任せているのかもしれない。こういう木更津もたまにはいい。その表情を、気付かれないようにこっそりと観察した。
 相変わらずむすっとした表情。他人に対する以上に自分に対してストイックな木更津にしては、相当にレアなものだ。普段見せる冷徹な無表情や酷薄な笑みと比べ、この表情には彼の内面が素直に現れているようで、可愛らしい。それに、この表情を惜しげも無く見せてくれる関係が、私には何よりも嬉しかった。
 木更津のこんな表情を知っているのは、私だけだ。
 すると、不意を打つように木更津がこちらを向いた。慌てて目を逸らしてから、これではやましいことを考えていたと認めるようなものだと気が付き、更に焦る。
「香月くん」
「な、んだい」
「原稿の進捗はどうだい」
 突然何かと思ったが、そこに話を振ってくるか。木更津の観察眼をもってして私の動揺に気付かない筈はないので、幸いにもスルーしてくれるらしい。私はできるだけおどけた様子で肩をすくめた。
「さっぱりさ。トリックはできたんだが、動機が思いつかなくてね。悩んでいる内に締め切りは迫ってくるし、小説家なんてろくな職業じゃないよ」
 ある推理小説の賞を大学時代に受賞して以来、私は専業小説家として生計を立てている。しかし推理小説というジャンル自体がマイナーということもあり、本の売上は思わしくない。やりくりは常にかつかつである。
「作家志望者を作家にするのは、完成させた物語の数だと聞いたことがあるけれどもね」
と木更津は流し目を寄越す。私は「完成したら傑作だよ」と嘯いた。
「あらゆる賞を総ナメにしてやるさ」
「完成したらの話だろう」
 木更津は表情を明るく一転させて、快活に笑った。ここまで回復したなら大丈夫だ。私はほっと胸を撫で下ろした。無愛想な木更津も良かったが、やはりいつもの彼が一番だ。
「ちなみに、今度はどんな話なんだい」
「いつも通りだよ。君みたいに素晴らしい名探偵が、快刀乱麻の如く難事件を解決する話さ」
「まるで明智小五郎にでもなった気分だ」
 木更津はくすくすと笑う。その表情は、私が最も好きなものだ。木更津の柔らかい、中性的な顔立ちによく似合う。
「何をおっしゃる。君は現代の名探偵なんだからね。明智小五郎くらい超えてもらわないと困るよ」
「やけにプレッシャーをかけるね。君こそ、私の助手に相応しい推理小説家になってくれないと」
 ふと思いついたように、木更津の微笑が私に向けられる。
「君の小説に登場する探偵にも、助手を付けたらどうだい」
 助手か。私は舌の上で、ゆっくりとその言葉を転がした。確かに、これまで書いた推理小説の中では、探偵は基本的に一人で行動している。古今東西の推理小説の中では探偵には助手が付き物だということはわかっていたが、自分を投影しているようで気恥ずかしく、登場させていなかったのだ。
 しかし、私の作品の一番の読者である木更津の言うことだ。彼の鋭い直感がそう告げるのならば、従ってみるのも悪くない。私は書いてみるよと請け負った。
「これで売れたら、何かご馳走してくれるだろうね」
「もちろん。さっき私を助手と認めてくれたことだしね」
「そんなこと言ったかい?」
 つれない台詞も、くすくす笑いながら言われるのなら可愛いものだ。夜を迎えた空に浮かぶ月は高く、僅かに熱を帯びた風が頬を撫でる。木立からはちらほらと蝉の鳴き声が聞こえ、夏の夜の音響が整い始める。このままどこまでも歩いていけそうな気がする、そんな気持ちのいい夜だった。





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2012.04.23.
「翼闇前のまだ一社員やってるそんなに売れてない頃の木更津と、
同じく売れてない香月の香木」というリクエストで書かせて頂きました。
翼闇前なのに、なんとなく名探偵木更津悠也風味になってしまったことに
書き終わってから気が付きました。
あ、『名探偵木更津悠也』の良い略称があれば教えていただけると嬉しいです。