幼い頃から、感情を表に出すのが苦手だった。
 どんな表情をすれば良いのか戸惑っていると、無愛想な子だと呆れられた。気持ちを伝えるのに的確な言葉を探していると、お愛想の一つも云えないのかと罵られた。
 成長するにつれ、そうした悪意のいなし方ばかり身に付いた。顔に貼りつくような愛想笑い。慇懃な社交辞令。人と関わる度に疲弊するが、人と関わらなければ生きていけないのは自明の理。これが自分の生き方なのだと云い聞かせながら日々を過ごしていた。見える色はことごとくくすみ、食べ物はぼそぼそとして美味くなく、何を聞いても心を動かされなかった。
 そんな頃、初めて彼の句を詠んだ。



 そのときの衝撃を表す言葉を、曽良は今もって知らない。
 彼が詠む世界はなんて鮮やかで、深みのあるものなのだろう。こんな世界があるということが信じられなかった。何度詠んでも、いや、詠めば詠むほどに、自分の世界との違いを思い知らされた。
 けれど頭にこびりついて離れない彼の句が、日常の中で実感を伴って思い出される度に、その世界に触れられそうな気がした。十七音の言の葉が優しく誘うのだった。
 彼の句は曽良の世界を揺るがしたのだった。








 彼の名は松尾芭蕉と云った。
 手紙を送るとすぐに返事が返ってきた。俳句とは違う、けれど間違いなく彼のものだとわかる言葉たち。どんな人生を送ってきた人間にも使えるような言葉しか使ってこなかった曽良は、自分に向けられたその唯一の言葉に感動した。
 そして、自分が使う言葉に不審を覚えた。怖くなったのだ。今まで何にも考えずに、血の通わない言葉を使っていた自分が。彼のこの瑞々しい言葉に対して、自分の言葉はどうだっただろう。汚泥の底を浚ったような、聞くに堪えないものばかりではなかっただろうか。
 彼に手紙を送ったことさえ後悔した。何を書いたかなどうろ覚えだが、こんな自分から出た言葉など彼に送るに相応しくないのだ、と。彼の生に比べれば、自分はまだ生きてさえいない。
 曽良にこんな言葉を使うことを許した世界を恨んだ。彼のように言葉を使いたいと思った。どうか彼の世界に入れて欲しいと願った。
 程なくして、曽良は彼の門弟となることを決めた。








 会ってわかったのは、自分は彼と同じ世界には住めないということだった。
「いらっしゃい、よく来たね」と出迎える彼を見てわかったのだ。邪気のない笑顔、受け入れるために広げた手、裏のない労いの言葉。そのどれもが自分からは遠くかけ離れた神聖なもののように思えた。
 今や彼は存在の全てで曽良の世界を変えたのだ。








 彼と共に過ごす時間、曽良は自分の感情に反することを何一つする必要がなかった。
 隣で芭蕉が素直に感情を表すのを見ていれば、無理に表情を作ることも、心にもないことを口にする必要もなかった。
 芭蕉の感情の揺れ幅は大きく、哀しい時には声を張り上げ涙を流すのに躊躇がなく、嬉しい時には幼児のごとき笑顔で笑った。怒ることも多かったが、そうした感情はどこか薄く、すぐに忘れるようだった。
 彼を通して見る世界は美しかった。自分にとって彼以外の人間は不要なのではないかと思え、そこに疑問の介在する余地はなかった。
 と同時に、彼のことをもっと知りたかった。彼の全てを自分のものにしたかった。彼の中に曽良以外の人間を容れたくなかった。



 曽良の思惑を知らず、松尾芭蕉という人間はどこまでも自分勝手だった。
 他人の好意を糧にして生きているような人間なのに、どうすればそれを手に入れられるかなど全く考えようとしない。ただただ感情に素直に動き、そこに制限はない。
 手に入れたと思った瞬間、彼はするりと抜け出してしまう。曽良ではない誰かと旅に行っては曽良の知らない景色を詠み、季節を詠み、感情を詠む。あるいは曽良と同じ時を過ごし、曽良の知らない感情を詠む。そんな時、彼のことが心底憎らしかった。自分で優しく誘っておきながら、絶対に彼は自分の世界に曽良を容れない。だのに何故見せびらかすようにするのだと、疎ましくて仕方がなかった。
 幸いと云うべきか、曽良が冷たくすると芭蕉は進んで曽良に懐いた。人の悪意には鈍感なくせに好意については過剰に反応し、その供給が少なくなると生命の危機に瀕したように、無意識に自ら求める。それでいて自分の好意は明らかにしないのだから始末が悪い。
 その証拠に、曽良の仕打ちに打ちひしがれるも、芭蕉は次の瞬間には他のものに気を移し、何事もなかったかのように笑う。所詮彼にとって自分はその程度の値打ちしかないのだと自虐もしたが、何をしても傍にいることを許す芭蕉に甘えていることも確かなのだった。
 曽良は全ての葛藤に解決を与えないまま、芭蕉の隣にいることを選んだ。










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曽芭出会い編。
尊敬だけじゃないけど、まだ恋じゃない。


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